58.あばら家へようこそ
「お……お……お義母様、何故ここに……」
パリに突然来られた時以上の驚きをもって、レオは今、あばら家の入り口に立つ義母を見つめている。
「い、今、サン・ポーロ地区は立ち入り禁止に……」
アデリーナはレオと同じくらい驚いた様子で、粗末なあばら家を見回している。レオの声は耳に入っていないようだ。青ざめているアデリーナに代わってシルヴィオが答えた。
「レオナルド様、お忘れですか。クッキアイオ家の者は例外です」
「そ、それにしたって」
「無論、十分な数の護衛をつけてのご訪問です。ご安心を」
「そ、そう」
アデリーナはアデリーナで、初めて訪れた息子の住居のあばら家ぶりに驚きを隠せないようで、「神よ……」「ここはもしやベツレ……」などと小声で呟いている。もしかしなくてもこのあばら家を、神の子が生まれたベツレヘムの家畜小屋になぞらえようとしているようだが、それはいろんな意味で受容できなかった。
レオはこほんと咳払いして母に告げた。
「お義母様、僕はこの通り元気でやっています。どうぞご安心ください」
――あなたの様子を見にきたのです。
アデリーナがここへ来た目的など、そういうことに決まっている。元気でやっているのは事実なのだから、こう言っておけばすぐに納得してお帰りになるだろう。
「――そこのお前」
そんなレオの淡い期待を軽やかに飛び越え、アデリーナはレオの後ろに控えているカルミネに目を向けた。
「何です、その怪しい恰好は」
「畏れながらお義母様。ただ今は謝肉祭の時期ですから、誰も彼もが仮装をするのです。それこそ魚屋の親父から、その辺の猫から……」
「仮面を取りなさい」
「分かりました。ご説明しましょう。カルミネは――この子はカルミネといいます――あまりに綺麗なので、うっかり彼を見ってしまった男が良からぬ思いを抱かぬよう、顔を隠しているのです」
「その程度のことで、心を乱す者はここにはおりません。取りなさい」
「お義母様ッ」
レオがいかにも残念そうに首を振った。
「僕がいます。カルミネの美しい顔を見てしまったが最後、僕は紳士でいられる自信がありません」
「レオナルド、恥を知りなさい」
「旦那、もういいですから」
カルミネが見かねた様子でレオを押し止め、バウタに手をかけた。
――いいのか。お前……。
あまりに綺麗だから――この子がそんな理由で顔を隠しているなどと、レオとて本気で思っている訳ではない。
カルミネがバウタの下に本当は何を隠しているのか、レオは知る由もなかったが、こんな形で無理矢理暴くことはしたくなかった。
カルミネは落ち着いた様子で、よろしいですか? と確認するようにアデリーナを見る。
アデリーナが頷くと、カルミネはバウタを三角帽子から外し、ほんの少しずらしてみせた。
アデリーナが扇で口元を覆う。
頼りない灯りの下、そこにあったのは大きく引き攣れた皮膚だった。
美しい少年には不釣り合いな、痛ましい火傷の痕を少しだけ外気に晒したまま、カルミネは淡々と言った。
「子供の頃、暖炉で」
「……つけておきなさい」
カルミネは楚々と一礼し、アデリーナの言い付けに従った。
アデリーナは視線をレオに移し、「帰りますよ」と厳かに告げた。
どこへ、とレオは危うく言いかけた。
「ですが、お義母様――」
アデリーナの眼差しは反論を許さなかった。
「ご当主様の決定でございます。レオナルド様におかれましては、お役目から速やかに手を引き、謹慎なさるようにと」
シルヴィオが畏まった口調で言い添える。
手を引く? 謹慎? 何故――いや、当然か。魔獣を祓うどころか捕えることもできず、挙句、自分が魔獣呼ばわりされる事態を招いた。家名に泥を塗ったも同然で、祖父が静観できるはずもない。だが――。
レオは聞き分けのない子供のように首を振った。
「――嫌だ」
外でもないレオの縄張りで、デルフィーナ・サーリを、リーア・エズィレを残酷に殺した連中との決着は、どうあってもレオがこの手でつけなくては気が済まなかった。
シルヴィオは構わず、レオの隣にいる少年に向けて丁重に腰を折った。
「助手殿。斯様な次第でございますので」
「――待って、なんで……」
反論しかけるレオの袖を引き、カルミネは小声でレオを諭した。
「旦那がお役目を解かれたのなら、助手も不要です。分かるでしょ」
いつだって冷静な濃緑の瞳が、「大人になれよ」と言いたげにレオを見つめている。
カルミネはアデリーナとシルヴィオに一礼し、「失礼します」とあっさり出ていった。
「レオナルド様」
「……分かったよ」
レオは渋々降参する。
なんて散々な夜だろう。だが、連れていかれる先がクッキアイオ宮ならば、今の状況ではむしろ喜ぶべきだろうか?
少なくとも、悪名高き共和国の水牢でもなく、ニコロ・パーリアが嬉々として用意しているに違いない、どことも知れぬ幽閉場所でもないのだから。




