57.クッキアイオ家の人々2
「ですが、だからこそ、と申しましょうか、アルジェント様はいつ奥様を失うかと、びくびくしているようなところがございました。フランチェスコ様のご誕生の際も……」
アルジェントは無事、出産を終えた妻の前でひざまずき、真顔でこう呟いたという。
――命と引き換えに産むと思った……。
――フッフッ……ひどい。
「フッフッ……」
キーヴァの面影があるという、優しげな目をレオは柔らかく細めた。
きっと、大好きだったのだ。
「……とても仲の良いご夫婦ございました」
元々が悲しい目をしているせいで、シルヴィオが今、微笑んでいるのか泣いているのか、よく分からなかった。
「ヴェネツィアでは昔から、まことしやかに言われております。こんな風に色々の血が混ざるから、クッキアイオの子供たちは皆、謎めいていて美しいのだと」
一つの部屋の前で、シルヴィオは丁度話を締めくくり、恭しく扉を開けた。
「こちらがレオナルド様のお部屋でございます」
「うわ……」
たまに出入りしていたパツィエンツァ宮の内装を彷彿とさせる、美しい調度に囲まれた部屋は、ヴィンチ家が外壁ごと丸々入る広さだった。
部屋の前で気後れしているレオに、シルヴィオが悲しげに訊ねた。
「手狭でございましたか?」
「分かってて言ってるでしょ!」
シルヴィオは「まあまあ」と受け流し、中へと促した。
「ご出立まではこの部屋でお過ごしください。本日は後程、採寸の者が参ります」
落ち着ける寝場所を探す獣のように室内を見回しているレオに、シルヴィオが勿体ぶって告げた。
「サイドテーブルにあるハンカチは、レオナルド様のイニシャルを奥様が刺繍なさったものでございます」
アデリーナ本人を前にしたかのように、レオがはっと背筋を伸ばした。
「――心してお持ち頂きますよう」
「は……はい……」
LとCが蔦のように絡み合う、美麗な刺繍が施されたハンカチを手に、レオはほどなくしてパリへと旅立っていった。
――わたくしのことは、母と呼びなさい。
母、か……。
いくら考えても分からなかった。何故、彼女は両手を広げてレオを迎え入れたのか。レオのイニシャル入りハンカチを卓に山と用意していたのか。
婚約者がよその女に産ませた子供に対して、随分寛大なことだと思った。
抱きしめられた時の感触を憶えている。
アデリーナからは何の悪意も、憎しみも伝わってこなかった。
それどころか、レオの母たるアデリーナは、遠く離れたヴェネツィアから、「あ、もう、そんなには」と言いたくなるほど、折に触れて服やらブーツやらを送ってきた。
――レオナルド。
――おっ……お義母様、何故パリへ。
時には本人が直接来て、レオの度肝を抜いた。
――あなたの様子を見にきたのです。
女教皇御自らのお運びである。びくびくと畏まるレオの耳に、思いがけない言葉が飛び込んできたのはその直後のことだった。
――それに、モンテキアーリの奥様が、パリ行きをあんまり自慢するものだから……。
――そっちが本音でしょう。
口元を優雅に扇で隠す義母を、レオはじっとりと睨んだ。
パリ社交界は諸手を挙げて、美しい未亡人を歓迎した。
アデリーナは年若い貴公子たちにどれほど愛を捧げられても、やんわりと距離を保つばかりだった。
レオはパリにいる間に一度だけ、義母と踊ったことがある。
レオのダンスの先生であるマダム・キュイエールに稽古をつけてもらっている時、その様子を保護者然として見守っていたアデリーナに、マダムが突然手をぽんと叩いて提案したのだ。
――上達のほどを直々にご確認なさっては?
踊るのは勿論ワルツ――オーストリア発祥と言われる、優美で不埒な三拍子だった。男女の体の距離が近い為、かつては「ふしだら」と言われていたが、あまりの人気に規制の方が押し負ける形で撤廃された。昨今の舞踏会ではこれが踊れないとお話にならない。
「いいえ、結構」と一蹴するかと思ったが、アデリーナは優雅にレオの前に立った。
あ、やるんだ……。
練習用に呼ばれたカルテットにマダムが合図を送り、ワルツの調べが始まる。
十五歳になったレオよりも、ほんの少し背の低いアデリーナの背に腕を回し、息を合わせてステップを踏み出す。女性の進行方向を邪魔しないよう、間違ってもドレスの裾を踏まないよう、何より自信の無さを悟られないよう。実生活同様、男が気をつけなくてはならないことは、ワルツでも山ほど。
予想されたことではあったが、アデリーナの足さばきは実に優雅で正確だった。レオがリードしているというより、アデリーナがリードさせてくれているという方が正しい。義母と息子の距離は近過ぎず、遠過ぎず。上品さと節度を保った大人のワルツはまるで、アデリーナそのもののよう。
パリ社交界の花を腕に抱き、一人前の男のように踊っている教え子が、ふっ……と優しく目元をほころばせたのを、マダムは見逃さなかった。
――あらあら。彼は随分、女泣かせだわ……。
レオはアンニュイな美男子振りと相まって、この頃からこの手の誤解に事欠かなくなっていく。
あっという間に最後の音が宙に消え、アデリーナはレオの手に軽く手を乗せたまま、いとも優雅に腰を落とした。片手を後ろに回して一礼するレオの、紳士然とした物腰もなかなか堂に入っている。いいものを見た、とご満悦のマダムは巻きの足りないイタリア語で「お見事」と二人を労った。
――どうかな……。及第点をもらえただろうか……。
レオは物憂く首を傾げ、義母の様子を窺った。
アデリーナは未だ夢から覚めやらぬといった風情で、ぽつりと独り言ちた。
――わたくしの人生に、このような日が来ようとは。
人よりも敏い耳が勝手に聞き取ってしまった、小さな小さな独り言だった。
ああ、何故――。
詮無きことと分かっていても、レオは会ったこともない実の父に訊ねずにはいられなかった。
何故、あなたの運命のひとは、アデリーナではなかったのかと。
レオの様子をどう取ったのか、アデリーナは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、厳かに言った。
――大変上手でしたよ、レオナルド。
――畏れ入ります……。
レオは恭しく首を垂れた。
フランチェスコ・クッキアイオの妻となるはずだった、気高く美しいアデリーナ・バーチ。
この人が本当に生まれの良い、正真正銘の貴族なのだとレオは知っている。
――フランチェスコ様が娼婦に産ませた子でございます。
ようやく分かった。
シルヴィオは敢えてああいう言い方をすることで、フランチェスコの正統な婚約者であるアデリーナの誇りを守ったのだと。




