56.クッキアイオ家の人々1
――あなた、御本が好きなの?
二人の子供が初めて出会った場所は、ヴェネツィア屈指の蔵書数を誇る、バーチ宮の図書室だった。
お役目最優先の厳しい父と、有能ではあるが何事にも芝居がかっている家令に育てられた寡黙な少年、フランチェスコ・クッキアイオ、十一歳。
名門バーチ家の長子として育ち、見た目はお人形のように愛らしいが、この頃から既に威厳と淑やかさを兼ね備えていたアデリーナ・バーチ、十歳。
――うん、好き……。
――わたくしもよ。
二人は最初から気が合った。
図書室で過ごす昼下がり。夏の夕べの舟遊び。冬の邸内での小さなお茶会。やがて成長した二人は婚約する。
「はーぁ……。そのフランチェスコさんて、本っ当……」
「フランチェスコさんとは何と他人行儀な。お父君でございますぞ」
アデリーナとの面会を前に、父フランチェスコと彼女の経緯をシルヴィオから聞かされたレオは、うんざりとため息を吐いた。
レオの父と母の間に何があったのか、それに関してはレオには何も分からない。
だが、これは分かる。
馬鹿でも分かる。
フランチェスコは間違えたのだ。
アデリーナ・バーチに向ける、兄妹のような温かな思慕の念を、運命のひとへの恋心と間違えたのだ。
§
アデリーナ・バーチ・クッキアイオは、満開の花のようなヴェネツィアン・ガラスのシャンデリアの下で、レオを待っていた。
とても小さな顔と手。華奢な体。漆黒の髪を頭頂部でふわりとふくらませ、後ろは自然に流している。繊細な刺繍が施された漆黒のドレスが、同じく漆黒の瞳と、磁器のような白肌に映え、女教皇のような威厳を醸し出していた。
シルヴィオが恭しく首を垂れ、女主人にレオを紹介した。
「フランチェスコ様が娼婦に産ませた子でございます」
――ちょっと⁉
レオは危うく女の子のような悲鳴を上げるところだった。
この、言い方……。
お好きに継子苛めをなさってください、と言っているも同然である。
アデリーナは鷹揚に頷くと、蒼白になったレオの頬に、お人形のように小さな手を差し伸べた。
一発、張られるのだろう。ついでに爪で引っかかれるのだろう。理不尽だったが、そんなことにいちいち涙していては庶民の暮らしは回らない。レオは聖書の教え通り、大人しく頬を差し出した。
「――子に、罪はない」
小さな手がレオの頬に触れたかと思うと、次の瞬間、レオは女主人に抱擁されていた。
え……?
来ると思っていたものが来ず、来るとは思っていなかったものが来て、訳が分からなくなっているレオに女主人が告げた。
「わたくしのことは、母と呼びなさい」
これがアデリーナとの出会いだった。
アデリーナの前を辞し、果てしなく長い廊下を歩きながらシルヴィオが語った。
「フランチェスコ様亡き後、アルジェント様は当然のこととして婚約解消を申し出られたのですが、奥様は頑としてお聞き入れにならず……」
バーチ家の令嬢であり、若く美しいアデリーナをこの家に縛りつける理由など、最早どこにもない。祖父も相当頑張ったらしいのだが、アデリーナは折れなかった。
「結局、奥様のご実家のお父君が根負けして、『無理にとは言わないが』と、持参金とは別口で、なにがしかの不動産を添えて当家にお預けになり、アルジェント様も『それがまことに本人の希望なら』と、フランチェスコ様の未亡人としてお迎えしたのでございます。念の為、申し添えますが、別口の不動産は持参金同様、奥様の資産として現在も適切に管理されております」
「ふーん……」
何がどうなったらそうなるんだか、下町育ちの庶民には一切理解できない話だった。死んだ男のことなどさっさと忘れて、次の男に行けばいいのに。
「レオナルド様のおばあ様、キーヴァ様が早くに亡くなられたこともあり、随分前から、クッキアイオ家の家政を万事、取り仕切っておられるのは奥様でございます」
女主人としてのアデリーナの手腕は、シルヴィオも舌を巻くほど見事なものであるらしい。それまで男所帯だったクッキアイオ家は、今や彼女なくしては一日も回らないということだった。
シルヴィオは途中、小さな肖像画の前で足を止めた。
「こちらの肖像画がおばあ様、キーヴァ様でございます。お美しい方でございましょう?」
あ、不思議……。会ったこともないのに、何故か懐かしい……。
まどろむような灰色の瞳が、臈たけた貴婦人の絵にうっとりと吸い寄せられる。
「フランチェスコ様も、レオナルド様も、目元が本当に、キーヴァ様によく似ておいでで……」
シルヴィオがそっと目尻を拭う。
キーヴァは遥か北の国、アイルランドの貴族の娘で、運命が彼女を引き寄せたのは、病の身の療養の為、温暖な南のイタリアに向かっていた時だったという。
――最後に一目、ヴェネツィアを見てみたい。あの不思議な水の都を、この足で一度、歩いてみたい。
ささやかな願いは聞き届けられ、妖精のようなキーヴァはアルジェントの前に舞い降りた。
アルジェントが呼吸も忘れてキーヴァを見つめている間、サン・マルコ広場にいた鳩が、祝福のような羽音を響かせて一斉に空へと飛び立った。
「いつか出会うという運命の君のことは、わたくしも聞いてはおりましたが……」
それまでは正直、半信半疑でございました、とシルヴィオは内緒話でもするように、芝居がかって声を潜めた。
――我が君、お声をおかけなさいませ。
六つも年下のシルヴィオにせっつかれるまで、アルジェントは微動だにしなかったという。
「アルジェント様の一方的な思いにも見えましたが、あまり心配はしておりませんでした。何せ運命の君ですから、最後にはめでたく結ばれるであろうと」
暢気なシルヴィオの物言いに、ふっとレオの口元がほころぶ。
シルヴィオは少し声を落とし、
「キーヴァ様が長くは生きられぬことを、アルジェント様も承知しておりました」
「うん……」
そんなことは祖父にとって、何の障害にもならなかったのだろう。




