54.初恋は実らないと人は言うけれど1
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。
面会室から尻尾を巻いて逃げ出したレオが、中庭のマリア像の足元でぐったりとしていると、レオの帽子と仮面を手に持ったカルミネが、いかにも忠義者らしい風情で駆け寄ってきた。
「こちらでしたか」
ほっとしたようなカルミネの声に、安堵を覚えたのはむしろレオの方だったかもしれない。近くに来たカルミネをとろりと見上げると、彼の着衣が心なしか乱れていた。
いつもちゃんとしているのに珍しい、どこかで脱いで、慌ててまた身に着けたみたいだ――そう考えて、はたと気づいた。
なあんだ、そういうことか。
レオはふんと笑って、
「お楽しみだったみたいだな」
「何がです? こっちは旦那を捜してあちこち駆け回ったんですよ」
カルミネは本気で気分を害していた。
彼は小さなため息を吐き、レオに倣ってマリア像の台座に背を預けた。
「……」
並んで座った主従はどちらも口を開こうとしない。
しばしの気まずい沈黙の後、レオがぽつりと言った。
「顔も見せてくれなかったよ」
「そ、それは……」
カルミネはさすがに返す言葉もないようだったが、それでも何か言わねばと思ったらしい。
「な、な、何か、事情があったんじゃないですかねぇ……?」
どんな事情があると言うのだろう。慰めるならもっとましなことを言ってほしい。
「会わなかった方が、よかったですか」
こんな子供に説明する気はなかった。
「……あの時、逃がしてあげればよかった」
だからこれは独り言だった。決してカルミネに言っているのではない。
「あの時、息が詰まりそうだったのに。もう待てないくらい彼女は苦しかったのに。今なら出してあげられるなんて、今更言っても遅かったんだ」
幼子の涙のようにぽろぽろと、言葉は勝手に口をついて出た。
なんて愚かだったんだろう。
今なら助けてあげられる、背に庇ってあげられる。だから僕の手を取って――。
それは五年前にやらなくてはならないことだったのに。
「本気で逃がしてほしかったのなら、彼女の方でそう言っていたでしょう。逃げなかったのは本人の意思で、旦那が気に病むようなことでは……」
「それ以上の発言は許さない」
今は正論などとても聞ける気分ではなかった。
レオは「帰る」と立ち上がった。
カルミネがそばにやってきてから、体が嘘のように楽になっていた。さっきまでは歩くことすらままならなかったのに。
カルミネもさっと立ち上がって言った。
「お供します」
「要らない。せっかくの夜だ。楽しんでおいで」
カルミネが咎めるようにレオを見上げた。
「お一人で動いて、また魔獣に仕立て上げられたらどうするんですか」
ああ、お前はいつだって正しい――。
レオはカルミネの小さな顎をくいとすくって、不埒なほど美しい顔を近づけた。
「もし僕が本当に魔獣でも、今のサン・ポーロに僕の獲物は一人も歩いていないだろ」
「旦那ッ!」
「来るな」
カルミネを無理矢理その場に残し、レオは逃げるようにデッレ・ヴェルジニ修道院を後にした。夜も遅い時刻だったが、振られて帰る舞踏会の客を当て込んでか、岸壁では流しのゴンドラが何艘も待機している。気配を消して大運河の上を走るのも面倒で、レオは適当に中の一艘に乗り込んだ。
あばら家に帰りつき、建付けの悪い扉をくぐって中に入る。
レオは灯りも点けずに雑多な居間の隅にどさりと座り込んだ。
ああ、やっぱり僕は、所詮魔物なんだ……。
純白のヴェールの対極にある、すべてを呑み込む暗闇が、騒めく心をひんやりと鎮めていく。
レオは膝頭にこつんと額を当てた。
――僕の馬鹿。
会いさえすれば、また昔のように親しく語りかけてくれるとばかり思っていた。
――五年も会ってないんでしょ? それだけ経てば、人って変わるものですよ。
分かった風なカルミネの声に、レオはぐりぐりと首を振る。
そんなことない、ジェルソミーナはあの頃のままだったよ。
相変わらずの見事な淑女っぷりも。「決めつけないで」なんて、意外とすぐに顔を出した向こうっ気の強さも。そりゃ少しは大人になっていたんだろうけど、彼女はやっぱりあの頃のまま――。
建付けの悪い扉がギィと開いて、「旦那……?」と可愛らしい声がした。
小さなお使いの男の子のように、バスケットを持って現れたのは、先程デッレ・ヴェルジニ修道院に置き去りにしたレオの助手だった。
カルミネは葡萄酒やら焼き栗やらが入ったバスケットを作業台兼食卓に置き、慣れた様子で室内の明かりを灯していった。
レオはその場に座り込んだまま、呆然とカルミネを見上げていたが、やがてはっと我に返って言った。
「お前……何してる。独りでこんなところをうろうろして、女の子と間違われて襲われたらどうするんだ」
無防備なカルミネに言いようのない怒りが湧いた。
――信じられない! お前はそんなに可愛いのに!
カルミネはきょとんとした様子で、
「旦那の見立て通りなら、彼らも下手に僕を襲ったりはしませんよ」
反論の余地なくレオは口を噤んだ。
そうだったよ……。お前はいつだって正しい上に、憎たらしいほど冷静なんだ。
「何しに……ああ、マリーノか」
彼は敬愛する総督閣下から直々に「レオを頼む」と言われている。ふんと自嘲気味に笑ったレオに、カルミネはむきになって言い返した。
「マリーノ様は関係ありません。僕は僕の意思でここに来たんです」
――私は私の意思でここにいるのです。
その言い方が、あまりにもジェルソミーナとそっくりで――。




