53.悪魔と聖ジェルソミーナ3
「そいつのせいじゃない……?」
レオは呆然と繰り返した。
――そいつに暴言を吐かれた直後、あなたは尼僧になったのに?
だが、ジェルソミーナは嘘を吐いている風でもなく、再度はっきりと否定した。
「ええ。その方のことは関係なく、私は私の意思でここにいます」
一番聞きたくない答えだった。
そいつのせいなら、レオはそいつとは違うと言えばいい。ジェルソミーナに暴言を吐かず、一生愛し、慈しみ、あなたの足元にひれ伏すと。
そうじゃないなら――さて、これは困った。
レオは子供のようにふいと顔を背け、憎まれ口を叩くのがせいぜいだった。
「嘘だね。こんな窮屈なところ、あなたが耐えられる訳がない」
「まあ、レオ……」
ああ、とレオは格子に額を当て、小さな声で呟いた。
「やっと……名前を呼んでくれた……」
困惑気味に首を傾げるジェルソミーナは「そんなことで?」とでも思っているのだろう。暢気なものだ。ずっと他人行儀な呼ばれ方で、こっちは淋しかったのに。
「あなたは僕の名前なんて、もう忘れてしまったかと思った」
「騎士様――」
「レオだよ、ジェルソミーナ」
甘く物憂い灰色の瞳が、絡めとるようにヴェールを見つめる。
レオの方ではこれで誘惑している自覚がなかった。大好きな人に体をすり寄せ、甘えてニャアと鳴いているだけ。もし画家がこの場に居合わせていれば、一幅の絵が描けただろう。格子に手をかけ、聖ジェルソミーナを誘惑する美しい悪魔。ダ・ヴィンチなら官能的に、カラヴァッジョなら仄暗い罪の意識を前面に。
「格子が邪魔だ……壊していい?」
鼻にかかった甘い声が、冗談とも本気ともつかぬ体で物騒なことを囁いた。
「レオ」
「なあに」
「ここが窮屈だと決めつけないで」
「事実だろ」
格子の向こうに閉じ込められて、あなたの好きな屋根の上も歩けず、楽しいことのひとつもありゃしない。
「それは偏見というものです。現に私は、今までにないほどの自由をここで得たわ」
「……それは教理問答的な意味で?」
パリ仕込みのシニカルが、要らぬところで顔を出した。
「お好きなようにおっしゃって」
「待って、ジェルソミーナ」
すげなく立ち上がったジェルソミーナをレオが素早く呼び止めた。
「今のあなたは自由だと言ったね?」
「ええ」
「あの頃よりも?」
「ええ」
「本当に?」
――狭いヴェネツィアが窮屈で窮屈でたまらなかったあの頃よりも? 本当に?
「ええ」
「ふうん……」
とろりと甘い灰色の瞳が、挑発的な光を帯びた。
気をつけて、ジェルソミーナ。悪魔と会話する時は、よくよく考えてから答えないといけないよ――。
「それなら、ヴェールを取って顔を見せて」
「えっ……」
「この目で確認したいんだ。今のあなたが本当にあの頃よりも自由に見えたら、僕も引き下がる」
無論、引き下がる気などなかった。ジェルソミーナが自由だなんてこれっぽっちも信じていなかったから、これは彼女の顔を見る為の、ただの口実でしかなかった。
「ジェルソミーナ、顔を見せて」
この五年間、焦がれに焦がれたあなたの笑顔を僕はまだ見せてもらっていない。あなたに触れることも、あわよくば外に連れ出すことも諦めたのに、こんなのあんまりじゃないか。
聖域の中で立ち尽くすジェルソミーナを格子の隙間から見上げ、レオは挑発するように囁いた。
「自由だって言うんなら、そんな風にこそこそ顔を隠してないで、堂々とすればいいだろ」
ひどい言い方だと自分でも思った。
「取れないの?」
ジェルソミーナは弱々しく首を振って拒否する。
「じゃあ、やっぱり嘘なんだ?」
ああ駄目だ。どうしてこんな言い方をしてしまうんだろう。
大好きなのに――。
「レオ……」
レオがこんなに苛めているのに、ジェルソミーナは怒りもせず、レオと彼女を隔てる格子に手を当てた。
まるで聖書に手を置くように。
「ここで私が言ったことに、何一つ嘘はない」
美しい声は凛と揺るぎなく、それは確かに宣誓だった。
はっと我に返ったレオが、格子に手を伸ばすより先に、ジェルソミーナは手を離した。
「ミーナ……」
ジェルソミーナは来た時と同じように美しく一礼した。
「騎士様、では失礼を」
「待って」
ジェルソミーナは硬い声で言った。
「もうここへはいらっしゃらないで」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
レオはどう足掻いても聖域の中に立ち入ることはできなかったから、一度も振り返らない後ろ姿を、指をくわえて見送るしかなかった。
ジェルソミーナが扉の向こうへ消える。
ぞわり、と肌が粟立った。
神の見えない鎖が忍び寄ってくる気配を感じ、レオは面会室を飛び出した。




