52.悪魔と聖ジェルソミーナ2
どうして失念していたのだろう。本来の恰好をしている時のジェルソミーナは、常に完璧だということを。
こう来られてはレオも子供のような挨拶はできないから、
「敬虔なる尼僧様、お目にかかれて光栄でございます……」
と、恭しく腰を屈めた。
「お座りになりませんか」
「では、尼僧様のお許しを得て」
持って回った大仰なやり取りは、ヴェネツィアの優美な習いだった。
レオが借りてきた猫のようにちょこんと大人しく椅子に座ると、ジェルソミーナが心配そうに訊ねた。
「騎士様、お加減が……?」
「あ、これは……」
レオは慌てて喉元を押さえる。タイを緩めていたのをすっかり忘れていた。
どうしよう。尼僧の前でこんな……。
レオは内心うろたえるが、ジェルソミーナは気にする素振りもない。顔こそ見せてくれないものの、身も心もとろけそうな、あの懐かしい声だけは惜しげもなく、
「どうぞご遠慮なくおっしゃってください」
「……」
はいと言えば、もしかして介抱しにきてくれるのだろうか。
「ええ、どうやら少し……」
「カルミネを呼んでまいります。少しお待ちに……」
「――行かないで!」
半魔の浅はかな策略など、全き善意の前には塵芥に過ぎないことを神が証明した。
一旦は腰を浮かせたジェルソミーナが、少し迷ってから再び座り直す。今にも泣き出しそうな顔をしている二つ年下の昔馴染みを、捨て置くことができなかったのだろう。格子の向こうの、更に純白のヴェールの向こうにいるジェルソミーナは、震える子山羊に優しく語りかけた。
「騎士様、どうかご遠慮なく、カルミネを頼ってくださいませ。あの子は騎士様のお役に立てることが何よりの幸せなのです」
「カルミネが?」
カルミネのことをよく知っていて、その上でカルミネの気持ちを代弁しているかのような口ぶりだった。
レオは困ったようにくすりと笑った。
「それはそれは。彼があなたに見せる顔と、僕に見せる顔は、どうやら少し違うようです」
ジェルソミーナは彼のレオへの当たりの強さを知らないのだろう。
つい先程も「気持ち悪いんですけど」と言われたばかりである。
「……」
ジェルソミーナはここが告解室であるかのように深くうなだれた。
「騎士様……。いろいろとご不満もおありでしょうが、どうかこれだけは信じてください。あの子は本当にあなたをお慕いしていて、どんな形であれ、ずっとおそばにいたいと心から願っているのです」
「不満だなんて」
レオは優しく否定してみせた。あいつめ……ジェルソミーナの前ではどれほど猫を被っているのか。
普段のカルミネからは、そんな気配は微塵も感じられないが、ジェルソミーナの声を通じて聞かされるそれは、まるで真摯な愛の告白のようだった。
「それが本当なら嬉しいですね。実は僕も、あいつのことはとても気に入っているんです。もしマリーノに返せと言われても、今更返す気もありません」
ヴェールの下で、ジェルソミーナが明らかにほっとしたのが分かった。
「よ、良かった……。では、これからも、おそばに置いていただけるのですね。至らぬ点はあるでしょうが、あの子なりに精一杯お仕えさせて――」
「ジェルソミーナ、カルミネの話はもういいです」
レオはジェルソミーナの言葉を遮り、少しだけ格子に身を寄せた。これくらいは許されるだろう。面会室の外で繰り広げられている痴態に比べたら、罪の数にも入らない。
「僕はあなたに会いにきたんだ」
格子の向こうで、ジェルソミーナが微かに身を震わせた。
「……あなたに何があったのか、知っています」
少し調べればすぐに分かった。ジェルソミーナを侮辱した馬鹿の名も、その馬鹿が何と言ったのかも。
「あなたが尼僧になったのは、その男のせいですか」
笑わぬ才女。孤高の花。周囲が好きなように呼んでいる美しい婚約者との、婚礼の日が近づいてきたある日のことだった。
間近に迫った新床を遊び仲間にからかわれ、その男はこう言ったのだ。
彼女と床を共にするくらいなら、石像の処女を抱く方がましだ、と。
「そんなつまらない男のせいですか」
その場にいた若い男女がどっと笑った。笑いは長く尾を引いた。顔を蒼白にしたジェルソミーナが柱の陰から姿を現すまで。
「僕なら……絶対に、そんなこと」
男はパツィエンツァ家の兄妹とは旧知の間柄だった。縁談を持ち掛けてきたのは男の家の方だったが、承諾するくらいだから、ジェルソミーナもその馬鹿のことは嫌いではなかったのだろう。
「ジェルソミーナ、今すぐじゃなくていい」
彼女が尼僧となって数日後、然るべき作法に則って、マルコが男の家に出向いた。杖に縋り、自ら向かおうとする父アンドレアを押し止め、マルコはすべての思いを胸に呑んで、相手の男とその父とともに、婚約無効の手続きを取った。
――急なことですが、この度、妹はサンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院にて神の花嫁となりました。
貴族社会はここ数日、その話題で持ち切りだった。「突然神の啓示を受けたようでして」とマルコが言い、それが表向きの理由となった。持参金の返還が明記され、パツィエンツァ家には一切の非がないものとして、手続きは粛々と進んだ。先方にも幾ばくかの分別はあったのだ。署名を終えたマルコが恭しく立ち去った後、父は息子に「馬鹿が」と吐き捨てた。
「でも僕は、あなたを決して傷つけないと誓うから」
レオは格子に手をかけた。手のひらが焼かれてもいいと思ったが、聖と俗を隔てる格子はひんやりと冷たいままだった。
「戻ってきて、ジェルソミーナ……」
どうか僕の手を取って。
この心臓に熱を教えてくれた人。
あなたと共に在れない未来なんて、どうか与えないでくれ。
「――私がここにいるのは、その人のせいではありません」
やがて、格子の向こうからとても穏やかな声が降ってきた。




