51.悪魔と聖ジェルソミーナ1
立入禁止令発令後のサン・ポーロ地区は、数日前までの騒がしい夜が、もはや遠い昔の栄華のようだった。
夜の帳が下りた後でこの地区を歩くことができるのは、今では十人委員会の調査官と夜の紳士、あるいはクッキアイオ家の関係者だけである。
「皆、何だかんだ言って立入禁止令を守ってくれてるようでよかったよ」
カルミネと二人でゴンドラに揺られ、灯の消えたようなサン・ポーロ地区を離れながら、レオがしみじみと呟く。
今日はペスト医の仮面を被っている。
嘴の長い、薄気味悪い仮面を選んだのは特に理由あってのことではなく、単にカルミネとお揃いでは芸がないと思ったからに過ぎない。
「共和国が出した布告ですからね。区民も現状は分かっているのでしょう。女の子のいる家は勿論、娘同然に可愛がっている子をこれ以上失いたくないという気持ちは皆同じです」
「うん」
「地区の皆さんを見習って、旦那も気をつけてくださいね」
「うん」
「今からでも引き返します?」
「……」
今宵は待ちに待ったデッレ・ヴェルジニ修道院の仮面舞踏会である。
いよいよ当日という段になっても、カルミネはまだレオを行かせたくないらしく、さっきからやたらと張り詰めた空気を漂わせていた。
「それより、マリーノは大丈夫なのかな……」
「心配ないでしょう。旦那や僕が不用意に接触しなければ、あの方が彼らに付け入る隙を与えることはありません」
「あっそ」
マリーノ本人からも、今度こそ本物のマルコからの手紙を介し、「しばらくは執務室に来ぬように」と厳重に言い渡されている。マルコがレオの魔獣美溶説に踊らされ、カテリーナ・ミディーカの身辺を調査していた件については、マリーノの指示で今後も継続することになった。捜査が誤った方向に進んでいると見せかけて、連中の油断を誘いたいとのことで、相変わらずの策士っぷりである。
レオはのっそりと顔を上げ、あの密会からずっと気になっていたことを訊ねた。
「ところでさ、お前とマリーノの関係って――」
「僕の過去を詮索するのは止してもらいましょう」
その歳で過去って。
失笑が漏れたが、今宵はペスト医の仮面がすべてを覆い隠してくれる。
――ん? 過去?
一見、隙がなさそうで、意外とそうでもないカルミネがぽろぽろと漏らす不用意な一言に、レオがこの時ようやく引っかかりを覚えた。
この子とマリーノの間には、何か浅からぬ縁があるのか……?
マリーノがデッレ・ヴェルジニ修道院を訪れた際、たまたま利発な使い走りが目に留まり、それ以来ちょっとした仕事をさせている――そんな単純な話ではないのか、この二人の関係は。
あ、そう言えば。
――僕はあまりに綺麗なので、お貴族の殿様たちが良からぬ思いを抱かぬよう、顔を隠しているのです……。
ひとつの可能性に思い至り、仮面の下でレオが息を呑んだ。
まさか……。
あまりに綺麗なカルミネが、貴族の助平親父共に襲われそうになっていたところを、マリーノが偶然助けて管轄下の修道院のファットリーノにしたのでは。
まさかそんな出来過ぎた話がと思うものの、そう考えればいろいろ納得がいく。カルミネが過去を語りたがらないのも、大人の男が苦手らしいのに、マリーノにならかなり近くに寄られても、ちっとも警戒する素振りを見せないのも。
そうか、とレオは噛みしめるように頷いた。
お前もジェルソミーナと同じなのか……。
貴族社会で居場所をなくしたジェルソミーナに手を差し伸べたのも、確かマリーノだったはず。
マリーノもよくよく人助けをする星回りだと思った。
カルミネ、お前、そういうことだったのか……。
「あの……。その仮面をつけてる人に、無言でじっと見つめられるの気持ち悪いんですけど……」
カルミネが若干引き気味にそう言った時、ゴンドラが目的地に到着した。
ペスト医と小さなバウタは今宵の招待客と思しき黒衣の男たちに紛れ、修道院の優美な門扉をくぐる。
小さな中庭に面した回廊を進むと、早過ぎないかと言いたくなるほど既に親密な様子の男女が柱の陰で蠢いていた。すれ違う若い女に僧服姿の者もおらず、言われなければここが女子修道院だと分からない。
めっきり口数の少なくなったカルミネが、レオを面会室まで案内すると、
「僕がいてはお邪魔でしょう」
と、気もそぞろにどこかへ行ってしまった。
あいつはあいつで用があるのかな……。
レオは煩わしいシルクハットとペスト医の仮面を取り、面会室の質素な椅子に倒れ込むように腰掛けた。
カルミネがいる間は気が紛れていたが、いなくなった瞬間から、見えない鎖に絡めとられたように体が重くなった。
おのれ……。魔女の集会並みに爛れたことをしているくせに、それでもやっぱりここは神の家なのか……。
教会のこういうところが毎回納得いかなかった。身内の堕落にはやたらと甘いのに、悪魔には情け容赦ない。
まあいい……。
見えない鎖は煩わしかったが、今宵のレオは寛大だった。彼女が来たら何て言おう。顔を見て、「元気だった?」と訊ねて、それから「会いたかった」と。
「ジェルソミーナ……」
唇に乗せるだけで、胸が震える名前。
呼吸の仕方が分からなくなって、レオはぐいと襟元を緩めた。半分くらいはきっと父なる神の鎖のせい、でも本当は半分以上ジェルソミーナのせいだった。待ち焦がれる胸の苦しさと、ようやく会える喜びが喉に押し寄せ、息をするのも難しい。
もう駄目だ。ジェルソミーナ、早く来てくれないと僕が死ぬ……。
気が遠くなるほど長い時間が経った後、格子の向こうに人が入ってくる気配がした。
ジェルソミーナだとすぐに分かった。
体にまとわりつく不快な鎖が、砕け散るように消えたから。
――え……?
彼女の為に立ち上がったレオの動きが止まる。
なんで……。
レオの前に現れた僧服姿の人物は、顔の部分を純白のヴェールで覆っていた。
若い貴婦人が外出する時によく使う、被っている本人には手に取るように周りが見えるが、こちら側には何一つ透かさない、精巧なヴェネツィアンレース。
それでも、ジェルソミーナだとレオが確信しているその人は、格子の向こうからあの懐かしい声で、
「ヴェネツィアを守る騎士様……」
と、身に余る名でレオを呼んで、いとも優雅に深い一礼を寄越した。




