50.Mとの密会3
「ニコロ・パーリア総督補佐官は、条件的にも動機の面でも、ぴたりと当てはまる人物ではあるが、ああ見えて共和国への愛は本物だ。市民への慈愛はポーズとしても、心から愛する共和国が諸外国から嘲笑され、経済的にも打撃を受ける、こんなやり方をあの人が是とするかどうか」
「確かに共和国への愛は感じるね。ちょっとついていけない種類の愛だけど」
半魔ごときに守らせたくない、と熱弁をふるっている姿は先日レオもお見かけした。
「まあ、補佐官殿が愛しているのは、今のヴェネツィアではなく、富も領土も最大だった全盛期の晴朗この上なき共和国だから」
「いつの話だよ」
「知ってるだろ」
ざっと四百年前である。
「フン……。馬鹿馬鹿しい」
「そう言うな。あの年代には意外とそういう人が多い。ナポレオン・ボナパルトの侵攻に心底怯えた反動だ」
やれやれとレオは肩をすくめた。
中高年男性の威勢がよくなるのは、いつだって脅威が去ってから。
嘘かまことか、ナポレオン・ボナパルトを丸め込み、ヴェネツィアの存続をもぎ取ったのは、若き日のマリーノだったという。その当時、まだ十になるやならずの子供だったレオは知らないが、マリーノならいかにもありそうな話である。
「落ちぶれた今のヴェネツィアを、自分の手で強国に戻したい、っていう野望をずっと抱き続けてたってことは?」
「どうだろうな。あの人は長年、共和国の要職に就いているが、優先順位がおかしかったことはない。現実感覚のある手堅い実務家という印象だ」
成程。マリーノさえいなければ、次期総督だったと言われている人は、やはりそういうものなのか。
「だが、もし――」
マリーノは憂わしげに息を吐いた。
「もし、あの方が黒幕なら……」
マリーノが口を噤むと、漏れ聞こえてくる音楽が、主役のような顔をして小部屋を満たす。
耳をくすぐるその調べは、何も知らず、晴れやかで、平和なヴェネツィアそのものだった。
「いや――『もし』も何も、あの方しかいない」
と、マリーノが葛藤の末に認めた。
「動機があって、カネがあって、力がある。その条件に当てはまる人物など、そうそういるものではない。ニコロ・パーリアか、せいぜい父トゥリパーノか」
その二択なら迷わずパーリアだ、とマリーノは言い切った。
「凡庸な父トゥリパーノに、これほど鮮やかで、周到で、複数の目的を同時に達成できる陰謀を企てる頭はない」
ヴィルジリオ・トゥリパーノの醜聞をもみ消すこと。忌まわしい半魔を閉じ込め、クッキアイオの血統のみをつなぐこと。マリーノ・フェリエラを大義名分の下に排除すること。
それは、レオを魔獣に仕立て上げ、ほんの少し罪を足してやるだけですべて叶う。
「よくもまあ、こんな筋書きを思いついたものだ……」
「褒めてる場合?」
マリーノは肩をすくめ、独り言のように続けた。
「最初はトゥリパーノの醜聞をもみ消すことで頭が一杯だったはず。だが、絶体絶命と思われた事態が、実は千載一遇の好機になると気づいた時、あの方は小躍りしただろうか」
マリーノはふんと笑って言った。
「パーリア殿は私のことが大嫌いなんだ」
何だ、その言い方は。お互い子供でもあるまいに。
「嫌いっていうか、目障りなだけだろ。マリーノがいれば、パーリアさんは一生総督になれないんだし」
対抗勢力でさえなければ、レオと違って出自が確かなマリーノのことは、むしろ好きではないかと思う。
「そうでもない。私と同じ名を持つご先祖が、ヴェネツィアの王になろうとしたことを、あの人は決して許しはしないから」
「あー、あったね、そんなこと……」
退屈な歴史の講義を受けながら、その時だけ「え? マリーノ?」と思ったのでよく憶えている。
一三五五年、ヴェネツィア共和国第五十五代総督、マリーノ・フェリエラは、共和国首席行政官の地位に飽き足らず、ヴェネツィア王になろうとした――とされている。
市民に対する貴族の専横を見かねてとも言われているが、その企ては事前に露見し、マリーノ・フェリエラは速やかに処刑された。彼は公的記録から一切の痕跡を消される記録抹殺刑にも処せられた為、今となっては真相はすべて闇の中である。あらゆることを詳細に記録し、後世に伝えるのが常であったヴェネツィアにしては、珍しい措置であった。
「あの方が黒幕というのは少々厄介だな」
「そうだね」
パーリアが食えない相手だというのはレオにも分かっていた。あの分会であれほど親しげに手を取られ、激励されるとは思わなかった。事情を知らない者が見れば、彼が実はレオを蛇蝎のごとく嫌っていて、幽閉しようとしているなどとは夢にも思わないだろう。
「一筋縄ではいかぬだろうな。あちらは錚々たる顔ぶれが集結していることだろう。総督の地位を狙う者、放蕩息子の不祥事を握り潰したい者、彼らに協力して恩を売り、おこぼれに与るつもりの者――恐らくは皆、押しも押されもせぬ旧家の派閥に属する者たちで、彼らが結託すれば怖いものなどそうそうない」
「マリーノ、大丈夫なの」
彼らの真の狙いがマリーノならば、彼はレオの心配をしている場合ではない。
パーリアの罠は既に張り巡らされ、マリーノの手足の一本や二本、絡めとっているかもしれない。
「お前たちはもう帰れ」
「でも、マリーノ」
「少し、一人で考えたい」
「あ、そうだよね。気が利かなくてごめん」
「いいさ」と、マリーノがレオのバウタを手に取る。
「ちょっと、自分で被れる……」
「いいから」と、マリーノはレオに顎をしゃくって上向かせた。
「レオ、お前は魔獣に仕立て上げられたとて、殺されることはまずないだろう。クッキアイオの嫡男を手にかけることは、ヴェネツィアでは国家反逆罪に当たるからだ」
「ああ、そうらしいね。シルヴィオから聞いたことが……」
バウタを被せられたレオの声がくぐもる。
国家反逆罪の判定は相当厳しいようで、未遂であっても同罪だという。
「だが、油断してるとあっという間に幽閉されることになるぞ。――美女たちが待つ花園にな」
レオの隣でカルミネの肩がぴくりと揺れた。
「クッキアイオの血を継ぐ子供さえ生まれたら、お前は用無しだ。そうなると、お前は人知れず『病死』するかもしれないから、せいぜい用心しておくことだ」
「それこそ心配無用だよ。ジェルソミーナ以外の女の子になんて、僕のはぴくりとも……」
「おっと、そこまでだ色男」
マリーノがやや加減のない性急さで、レオにぼすっと三角帽子を被せる。
「余計なことを言ってないで、さっさと帰れ」
レオが三角帽子を被り直している間に、マリーノがカルミネを「こちらへ」と呼び寄せた。
いそいそと寄ってきたカルミネの耳元に、マリーノは別れの口づけでもするように顔を寄せる。
「――気をつけるように」
「あ、はい……」
妙に小声で囁かれた忠告を、人より敏いレオの耳が拾った。
面白くない。
カルミネの奴、随分と親密な距離をマリーノに許しているものだ。




