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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第4章:初恋は実らないと人は言うけれど

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50.Mとの密会3

「ニコロ・パーリア総督補佐官は、条件的にも動機の面でも、ぴたりと当てはまる人物ではあるが、ああ見えて共和国セレニッシマへの愛は本物だ。市民への慈愛はポーズとしても、心から愛する共和国が諸外国から嘲笑され、経済的にも打撃を受ける、こんなやり方をあの人が是とするかどうか」


「確かに共和国への愛は感じるね。ちょっとついていけない種類の愛だけど」


 半魔ごときに守らせたくない、と熱弁をふるっている姿は先日レオもお見かけした。


「まあ、補佐官殿が愛しているのは、今のヴェネツィアではなく、富も領土も最大だった全盛期の晴朗この上なき共和国ラ・セレニッシマ・レプブリカだから」


「いつの話だよ」


「知ってるだろ」


 ざっと四百年前である。


「フン……。馬鹿馬鹿しい」


「そう言うな。あの年代には意外とそういう人が多い。ナポレオン・ボナパルトの侵攻に心底怯えた反動だ」


 やれやれとレオは肩をすくめた。


 中高年男性の威勢がよくなるのは、いつだって脅威が去ってから。


 嘘かまことか、ナポレオン・ボナパルトを丸め込み、ヴェネツィアの存続をもぎ取ったのは、若き日のマリーノだったという。その当時、まだ十になるやならずの子供だったレオは知らないが、マリーノならいかにもありそうな話である。


「落ちぶれた今のヴェネツィアを、自分の手で強国に戻したい、っていう野望をずっと抱き続けてたってことは?」


「どうだろうな。あの人は長年、共和国の要職に就いているが、優先順位がおかしかったことはない。現実感覚のある手堅い実務家という印象だ」


 成程。マリーノさえいなければ、次期総督だったと言われている人は、やはりそういうものなのか。


「だが、もし――」


 マリーノは憂わしげに息を吐いた。


「もし、あの方が黒幕なら……」


 マリーノが口を噤むと、漏れ聞こえてくる音楽が、主役のような顔をして小部屋を満たす。


 耳をくすぐるその調べは、何も知らず、晴れやかで、平和なヴェネツィアそのものだった。


「いや――『もし』も何も、あの方しかいない」


 と、マリーノが葛藤の末に認めた。


「動機があって、カネがあって、力がある。その条件に当てはまる人物など、そうそういるものではない。ニコロ・パーリアか、せいぜい父トゥリパーノか」


 その二択なら迷わずパーリアだ、とマリーノは言い切った。


「凡庸な父トゥリパーノに、これほど鮮やかで、周到で、複数の目的を同時に達成できる陰謀を企てる頭はない」


 ヴィルジリオ・トゥリパーノの醜聞をもみ消すこと。忌まわしい半魔を閉じ込め、クッキアイオの血統のみをつなぐこと。マリーノ・フェリエラを大義名分の下に排除すること。


 それは、レオを魔獣に仕立て上げ、ほんの少し罪を足してやるだけですべて叶う。


「よくもまあ、こんな筋書きを思いついたものだ……」


「褒めてる場合?」


 マリーノは肩をすくめ、独り言のように続けた。


「最初はトゥリパーノの醜聞をもみ消すことで頭が一杯だったはず。だが、絶体絶命と思われた事態が、実は千載一遇の好機になると気づいた時、あの方は小躍りしただろうか」


 マリーノはふんと笑って言った。


「パーリア殿は私のことが大嫌いなんだ」


 何だ、その言い方は。お互い子供でもあるまいに。


「嫌いっていうか、目障りなだけだろ。マリーノがいれば、パーリアさんは一生総督になれないんだし」


 対抗勢力でさえなければ、レオと違って出自が確かなマリーノのことは、むしろ好きではないかと思う。


「そうでもない。私と同じ名を持つご先祖が、ヴェネツィアの王になろうとしたことを、あの人は決して許しはしないから」


「あー、あったね、そんなこと……」


 退屈な歴史の講義を受けながら、その時だけ「え? マリーノ?」と思ったのでよく憶えている。


 一三五五年、ヴェネツィア共和国第五十五代総督、マリーノ・フェリエラは、共和国首席行政官の地位に飽き足らず、ヴェネツィア王になろうとした――とされている。


 市民に対する貴族の専横を見かねてとも言われているが、その企ては事前に露見し、マリーノ・フェリエラは速やかに処刑された。彼は公的記録から一切の痕跡を消される記録抹殺刑ダムナティオ・メモリアエにも処せられた為、今となっては真相はすべて闇の中である。あらゆることを詳細に記録し、後世に伝えるのが常であったヴェネツィアにしては、珍しい措置であった。


「あの方が黒幕というのは少々厄介だな」


「そうだね」


 パーリアが食えない相手だというのはレオにも分かっていた。あの分会であれほど親しげに手を取られ、激励されるとは思わなかった。事情を知らない者が見れば、彼が実はレオを蛇蝎のごとく嫌っていて、幽閉しようとしているなどとは夢にも思わないだろう。


「一筋縄ではいかぬだろうな。あちらは錚々(そうそう)たる顔ぶれが集結していることだろう。総督の地位を狙う者、放蕩息子の不祥事を握り潰したい者、彼らに協力して恩を売り、おこぼれにあずかるつもりの者――恐らくは皆、押しも押されもせぬ旧家の派閥に属する者たちで、彼らが結託すれば怖いものなどそうそうない」


「マリーノ、大丈夫なの」


 彼らの真の狙いがマリーノならば、彼はレオの心配をしている場合ではない。


 パーリアの罠は既に張り巡らされ、マリーノの手足の一本や二本、絡めとっているかもしれない。


「お前たちはもう帰れ」


「でも、マリーノ」


「少し、一人で考えたい」


「あ、そうだよね。気が利かなくてごめん」


「いいさ」と、マリーノがレオのバウタを手に取る。


「ちょっと、自分で被れる……」


「いいから」と、マリーノはレオに顎をしゃくって上向かせた。


「レオ、お前は魔獣に仕立て上げられたとて、殺されることはまずないだろう。クッキアイオの嫡男を手にかけることは、ヴェネツィアでは国家反逆罪に当たるからだ」


「ああ、そうらしいね。シルヴィオから聞いたことが……」


 バウタを被せられたレオの声がくぐもる。


 国家反逆罪の判定は相当厳しいようで、未遂であっても同罪だという。


「だが、油断してるとあっという間に幽閉されることになるぞ。――美女たちが待つ花園にな」


 レオの隣でカルミネの肩がぴくりと揺れた。


「クッキアイオの血を継ぐ子供さえ生まれたら、お前は用無しだ。そうなると、お前は人知れず『病死』するかもしれないから、せいぜい用心しておくことだ」


「それこそ心配無用だよ。ジェルソミーナ以外の女の子になんて、僕のはぴくりとも……」


「おっと、そこまでだ色男」


 マリーノがやや加減のない性急さで、レオにぼすっと三角帽子を被せる。


「余計なことを言ってないで、さっさと帰れ」


 レオが三角帽子を被り直している間に、マリーノがカルミネを「こちらへ」と呼び寄せた。


 いそいそと寄ってきたカルミネの耳元に、マリーノは別れの口づけでもするように顔を寄せる。


「――気をつけるように」


「あ、はい……」


 妙に小声で囁かれた忠告を、人より敏いレオの耳が拾った。


 面白くない。


 カルミネの奴、随分と親密な距離をマリーノに許しているものだ。

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