49.Mとの密会2
「メルクリオが見たという、灰色の目をした黒い獣は恐らく作り物でしょう。獣を飛ばすのも、仕掛けを使えば不可能じゃない。昔、オペラでそういうのを観たことがあります」
ヴェネツィアのオペラは、趣向を凝らした大掛かりな舞台装置で知られる。賤しい身分と言い張る割には結構なお坊ちゃん発言だが、カルミネがお坊ちゃん育ちというのはとっくに気づいているので今更何か突っ込む気もない。
「随分派手にやってくれるものだな」
「ねえ、それよりさ――」
「それよりって何ですか。旦那はご自分が置かれた状況が本当に分かっているんですか」
「レオ。お前はどうも人にはない力がある分、物事を軽く考えるきらいがあるな」
「いいから聞いてよ……」
二人掛かりで責められると分が悪いが、これだけは聞いてほしい。
「あのさ、リーア・エズィレの殺害時、魔獣は現場にいなかったと思うんだ」
「何ですって」
うん、分かるよ。その反応。
俄かには信じ難い話だろう。もしそうなら、彼が野放図に繰り広げている惨殺の罪を、レオになすりつけようとしているという前提が崩れる。
どういうことかと言いたげな顔に左右から挟まれ、レオが説明した。
「だってさ、そんなの連れてたら、やることが多過ぎだよ。ただでさえメルクリオがいつ路地に入ってくるか分からないのに」
と、レオは彼らの「やること」を指折り数え上げる。
「まず、リーアを路地に引きずり込み、トゥリパーノに差し出して喉をがぶりとやらせる。メルクリオが来る前に、トゥリパーノを回収する。万が一にもメルクリオを襲わないよう、しっかり閉じ込めておく必要があるね。その後、路地に入ってきたメルクリオに、僕っぽい魔獣を目撃させる。じっくり見られてボロが出る前に、さっさと飛ばしてメルクリオから遠ざける。これだけのことをしないといけないのに、どれかひとつでも失敗したらすべてがおじゃんだ。それでなくとも秒刻みですることがあるって時に、魔獣なんていう不確定要素が多い生ものなんか使わないよ」
真ん中だとどこを見ながら喋ったらいいか分からないなと思いながら、レオは二人を均等に見やって続けた。
「恐らく、サーリの時もだ」
デルフィーナ・サーリの殺害現場は、レオのあばら家からすぐ目と鼻の先の距離だった。だが、事件のあった夜、レオは何も気づかず暢気に眠っていた。この時点で何かおかしいと気づくべきだったのだ。
「彼女の体には、魔の匂いが少しも残っていなかった。リーアにしても、襲われた直後だというのに、匂いはほとんどしなかった」
だから、二人を殺したのが人間でもおかしくない――というのがレオの主張だった。
「……確か、魔物ではなく人間に殺された者の体にも、魔の匂いに似た何かは残るのだったな」
やはりマリーノはよく知っている。
「そう。人を殺す時の人間は一種の狂気を帯びているし、魔の匂いと人間の狂気の匂いはよく似ているから」
カルミネがはっとしたように、
「そういえば、致命傷となった首回りの傷跡は皆『そっくり同じ』でした。少し不自然なくらい」
「うん……」
レオが物憂く息を吐いた。
繰り返される悪夢。
どうしようもない既視感。
おぞましい凶器の製作者は、カテリーナ・ミディーカの遺体を直接見せられたのだろうか。それとも詳細な写しを与えられたのか。
同一の獣の噛み痕と見せかけて、まるで教会の焼印のごとく。
サン・ポーロの二人の娘の傷痕は、寸分違わず同じだった。
レオの唇が皮肉に歪んだ。
「どうせなら、魔獣の吠え声を出せる装置も作ればよかったのに」
さて、どうしてくれようか――レオは気だるく目を細める。
人の身でありながら、悪魔よりもおぞましいお前たちを。
「彼らはトゥリパーノが若い娘を襲うのを、僕の仕業に見せかけようとしてるんじゃなくて」
怒りだろうか。この胸に湧き立つ感情は。
「僕が市民を襲っているように見せかける為に、罪もない娘を殺して回っているんだ」
「……!」
カルミネが血の気を失い、ふらりとレオの腿に手をついた。レオはカルミネの肩を抱き、クッと唇の端を歪める。
「随分な出迎えだ、不実なヴェネツィアよ」
怒れる魔物が部屋をきしませ、壁がみしりと嫌な音を立てる。
「僕がそんなに気に食わないのかい――?」
その時、マリーノの大きな手がぽんとレオの頭に乗った。
「ほら、お前はやっぱり詰めが甘い。途中までは悪くないのに」
「な、なん……」
毛を逆立てている子猫をいなすように、マリーノがぽんぽんとレオの頭を撫でる。
「お前が怒るべきなのはそこではなく、駒として扱われたことに対してだ」
レオがぽかんとマリーノを見上げる。
そこには凄絶な笑みを湛える悪魔のように美しい男がいた。
「やってくれたな……。連中が気に食わないのは、お前じゃなくてこの私さ」
あ、下手したら僕より怒っている……。
「私としたことが迂闊だった」
マリーノは顔を覆い、優雅にくっくっと笑う。
魔獣の正体がレオならば、彼を指名したマリーノの責任は当然、追及されることになる。
レオが魔獣だと気づいていなかったというのなら、その地位に見合わぬ愚物として。気づいていたというのなら、あろうことか魔獣と手を組み、ヴェネツィアを危機に晒した反逆者として。
ならば、犠牲の数は多いほどよい――議論の余地なく、確実に蹴落とすことができるように。
「……そこまでとは」
ぞっとするほど美しい笑みを湛えたまま、マリーノは苦い果実を舌の上で味わうように囁いた。
「彼らの狙いは総督位だ。謎めいた恐ろしい事件と見せかけて、一皮むけば目新しくもない陰謀だったな」
レオは呆然と首を振った。
そんなことの為に。
「下らない」
「まったくだな」
現役のヴェネツィア総督は、実感のこもった顔で同意した。
「昔ならいざ知らず、今のヴェネツィア総督なぞ所詮は色街の元締め。流された血に見合う地位とは到底、思えぬが」
マリーノはうんざりと赤毛をかき上げた。いつも優雅な彼にしては、おやと思うほど荒々しい手つきである。
「犯した罪に見合う対価は、是非とも支払わせてやりたいものだ」
「へえ……。今日は気が合うね」
「……ほう」
二匹は初めて互いの価値に気づいたように、親しく微笑み合った。
勿論、負債は取り立てなくてはならないだろう。たとえ先方に支払う気がなかろうと。
その発想は悪魔としても、名だたるヴェネツィア商人の裔としても、至極真っ当なものだった。
それに、とレオは密かに思う。
退廃の都の元締めは、マリーノぐらい緩くて、いつも余裕があって、色気のある男がよく似合う――。
「人の業は管轄外だけど、協力しないこともない」
「随分勿体ぶるじゃないか。彼らの筋書き通りになった日には、一生幽閉されるご身分のくせに」
「うるさいな。で、黒幕ってやっぱりパーリアさん?」
マリーノは以前言っていた。これだけのことをやってのけるには、トゥリパーノの当代当主はあまりにも凡庸だと。
トゥリパーノが泣きつく相手は限られている、とも。
となると、パーリアぐらいしかいないのではないか。
だが、「そこなんだよなぁ……」と、マリーノは意外にも、すんなりと頷かなかった。




