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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第1章:バビロンの軛

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05.父と子の秘密2

「――レオ、逃げろ」


「ジャコモ殿!?」


 ジャコモは紳士を部屋の隅に押しやり、横に渡した棍棒で喉元を押さえて自由を奪った。


 レオに向かって鋭く告げる。


「ティーノのおかみさんのとこへ行け! 話はつけてある」


「何だよ、それ」


 訳が分からなかった。父がこの日を予期していたらしいことも、知らぬ間にそんな手回しをしていたことも。


 紳士の言葉を否定しないのも。


「早く!」


 早くって……。


 レオはカッとなって叫んだ。


「どっちだよ! ゴンドラ漕ぎ(ゴンドリエレ)のティーノのおかみさん? ダ・ティーノの永遠の看板娘?」


 どっちもありそうで、どっちに行っていいのか分からない。


 まったく、父のやることときたら……。


 ジャコモがレオに負けず劣らずカッとなって叫んだ。


「看板娘の方に決まってんだろぉ~~~~!!」


「――お取込み中すみませんが」


 紳士が慇懃に口を差し挟む。


「ジャコモ殿は何か誤解をしているのではありますまいか」


「うるせえ!」


 下町の荒くれ画家に至近距離で凄まれても、悲しげな紳士はいささかも動じなかった。


「世間の口が何と言おうと、クッキアイオ家がお世継ぎを鍛える為と称して、一度魔界に突き落とすなどということはありませぬ」


「そんなんじゃねえ。――分かってんだろ」


「そうですね」


 紳士はジャコモを真正面から見据えた。


「あなたはフランチェスコ様の無二の親友であった方。お互い何も知らない振りは止しましょう」


 ジャコモの体がぴくりと揺れた。


 父さんと、その人が……。


 レオは逃げもせずその場に留まり、二人のやり取りにじっと耳をそばだてている。


 あばら家の隅に追い詰められながら、紳士の態度は最初から何も変わらず泰然としていた。


 ジャコモは棍棒を押し当てたまま、観念したようにぎゅっと眉を寄せた。


「……頼む。この子は見逃してくれ」


 予期せぬ言葉だったのか、紳士が初めて困惑の色を見せた。


「……どういう意味です? クッキアイオ家の責務から逃がれたいと? そんなことが可能だとでも?」


 ジャコモは暗い目でふっと笑った。


「よく言う。あんたたちはレオを殺すつもりでいるくせに」


「ジャコモ殿――」


 紳士の手が棍棒に掛かる。


 悲しげな目がゆっくりとジャコモを捉える。


「どうして、そう思うのです……?」


 二人の間の空気が見る間に緊張をはらんだ。


「あなたは、何を知っているのです……?」


 ――父さん!


「レオ、止せ!」


 次の瞬間、見えない糸に引かれるように宙に浮き、壁に叩きつけられたのは小さなレオの体だった。


「レオ!」


「レオナルド様!」


 床に崩れ落ちたレオに二人が駆け寄る。


「レオ、大丈夫か!」


 物問いたげな灰色の瞳がじっとジャコモを見上げている。


 どうして……。


 レオは今、確かにこの紳士を持ち上げて、父から引き離したはずだった。


「レオ! レオ!」


「レオナルド様、痛みは? 体は動かせますか?」


 レオは微かに首を横に振る。


「――ジャコモ殿、寝台はどちらです」


「触るな! 俺が運ぶ。お前、自分でやっといてよくも……!」


「わたくしではありません。それより、レオナルド様は全身を強打しています。素人が下手に動かしてはいけません」


「へえ、あんたはいいっての?」


 紳士は事もなげに答えた。


「怪我人への対処は心得ております。これでもクッキアイオ家の家令でございますので」


 ぐっと押し黙るジャコモの鼻先で、紳士がレオを抱き上げる。


「やあ、ジャコモいる? ……っておいどうした!?」


 あ……。


 戸口でマリーノの声がした瞬間、レオは日常がようやく服を着て帰ってきたような気がした。


 不思議な安心感に包まれて、まどろむように目を閉じる。


「マリーノ様ではありませぬか……!」


「シルヴィオ、何でここに……いや、話は後だ。レオ! レオ! どうした、目を開けろ!」


 うるさい……。


「マリーノ様、お鎮まりください。レオナルド様を寝室へお連れしたいのですが」


「分かった。こっちだ」


「おい、ひとんち……!」


 ごちゃごちゃと言い合う声がして、荒い足音が遠くなる。


 ――レオ、止せ!


 父は確かにそう言った。


 ――あなたは、何を知っているのです?


 レオの意識はそこで途切れた。

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