04.父と子の秘密1
――小さな騎士よ、ささやかなもてなしを受けておくれ。
――わあ、こんなに。
白熱した戦いを終え、お茶とお菓子をたんまりご馳走になったレオが満ち足りて家に帰ってくると、珍しくマリーノがいなかった。
「ただいま」
「ん……」
ジャコモは黙々と絵筆を走らせている。
レオは父の邪魔にならないよう、壁際からそっと父を見守った。
――真剣に仕事をしている時の父さんは、本当に芸術家みたいに見えるな……。
苦しげに寄せられた眉根といい、射るように熱い眼差しといい、描いているのはどうせ細部の怪しいコロッセオなのに、とてもそうは見えない。
「ああ、そうか。ほら」
レオの視線に気づいたジャコモが筆を置き、両腕を広げた。
「僕もう、そういうの別に……」
「いいから来いよ」
ジャコモはほれほれと笑顔でレオを差し招く。
渋々の体で寄ってきたレオを、ジャコモが腕の中に抱き寄せた。
嗅ぎ慣れた油絵の具の匂いがする。
いつの記憶か定かではないが、絵の具の染みがついた作業台にごろりと置かれ、「どうしよう、いや、育てるしかねえ。俺が」と言われた時もこの匂いがしていた。
ふと気づくと、腕を解いたジャコモがレオの顔をしげしげと眺めている。
「え。何……?」
ジャコモはおもむろにレオの頬をふに、とつまんだ。
「レオくん、男前になったな……」
「なんなの」
「なあ、レオ……」
ジャコモが何か言おうとした時、突然ノックの音が鳴り響いた。
「誰だよ。うちの扉をノックする奴は」
ジャコモが驚いたように扉を見やる。
ノックなど抜きで「よお、ジャコモいる?」といきなり入ってくるのがこの界隈の正しい訪問作法である。
「失礼いたします。ジャコモ・ヴィンチ殿」
音高らかなノックの後に入ってきたのは、品のある初老の紳士だった。
印象的な悲しげな目をしている。
紳士はレオの姿を認めるなり、「あばら家でそんな」と言いたくなるほど恭しい仕草で跪いた。
「レオナルド様」
――誰。
名前を最後まで呼ばれたことも、そこに様がついたことも、違和感しかなかった。
紳士は悲しげな目をジャコモに移し、深々と頭を下げた。
「今日までレオナルド様をお育て頂き、誠にありがとうございました」
「何者だ。いや、名乗らなくていいから出てけ」
紳士はジャコモの言葉の後半を無視し、悠然と名乗った。
「これはご挨拶が遅れました。わたくし、クッキアイオ家の家令を務めておりますシルヴィオ・アグロドルチェと申します。以後、お見知りおきを」
ジャコモの肩がぴくりと揺れた。
クッキアイオ家だって……!?
レオも驚いてまじまじと紳士を見つめる。
それはヴェネツィア人なら子供でも知っている名前だった。
嘘かまことか、罪の汚濁に塗れたヴェネツィアを、悪魔の手から守っているという謎めいた大貴族。
ヴェネツィア黎明期にさかのぼる十二の家柄に次ぐ古い家系で、何故か代々跡取りの男子一人しか生まれないのに、断絶もせず今日まで続いている。
ヴェネツィアの闇の守護者。
呪われた一族。
十三番目。
不吉でいわくありげな二つ名には事欠かず、随分前に早世したお世継ぎは、悪魔との戦いで命を落としたとまことしやかに囁かれていた。
「『十三番目』様がうちに何の用だ」
ジャコモがぶっきらぼうに言い捨てる。
紳士は「お分かりでしょう」と品よく顔をしかめた。
「そこにおられるレオナルド様は、亡きフランチェスコ様の御子でございますな?」
「違うね。俺の子だ」
「しかし……」
「おっと。あんたが何と言おうと、この子はクッキアイオの紋章入りスプーンなんかくわえてねえし、体のどこにも五芒星の痣はねえぜ」
「そんな痣はクッキアイオ家のどなた様にもありはしません。埒もない噂を――」
えっ。ないんだ。
レオは興味津々で二人のやり取りを見守った。
これは皆に教えてやらないと。
五芒星の痣の話は、少なくともこの界隈の爺さん連中が子供だった頃から、庶民の間ではもっともらしく語られている伝説の一つである。
呪われた十三番目様のことは、誰もが常に心の片隅で、何となく意識せずにはいられない。ヴェネツィアっ子にとってクッキアイオ家とは、恐ろしいけれど覗かずにはいられない深淵のようなものだった。
「ああそう。じゃあうちの子が十三番目様の子供だという証拠も、どこにもねえってことだよな?」
そう凄むジャコモの手にはいつの間にか棍棒が握られていた。狭くて雑多な画家の家では、大抵のものは手を伸ばせばすぐ取れる。ゴンドラ漕ぎにあらずとも、下町の男は荒事を躊躇しなかった。ジャコモとて「俺も昔は悪かった」を地で行く男である。
「ジャコモ殿……」
紳士が悲しげに首を振った。
「証拠も何も、レオナルド様はフランチェスコ様に生き写しではございませんか。……あなたも気づいているでしょう?」
「……」
「父さん……」
――レオくん、男前になったな……。
さっきの妙に意味深なあれ、何?




