47.危険な男2
「――明後日のことですが」
その手がバウタに触れるより先に、カルミネがすっとレオから離れた。
気のせいかもしれないが、バウタの下の顔が赤い。
「ジェルソミーナ尼は普段からああいう馬鹿騒ぎには参加しません。ですので、お会いになる時は、面会室で格子越しにということになります」
「えええ⁉」
レオが驚いて飛び起きる。
「な、な、に、なに言って……」
衝撃のあまり、ちゃんと喋ることができなかった。
「何って、当たり前のことしか言っていませんが」
「いやいやいや」
これが外国の女子修道院なら、そうだろうと納得もしよう。周りの男と同じように、紳士らしく振る舞いもしよう。だがここはヴェネツィア。しかも仮面舞踏会の夜である。
期待させるだけさせておいて、ダンスを口実に手を取ることも、あわよくば中庭に連れ出すこともできないなんて、一体どういうことなのだ。
カルミネはおや、と三角帽子を傾けた。
「何かご不満でも?」
「ぐ……」
バウタの下の顔色は、すっかり元に戻っている。
不満だなどと言おうものなら、カルミネは即座に「じゃあこの話はなかったことに」と言い出すに違いなかった。
「分かった。それでいい……」
床に座り直し、レオは不承不承そう答える。
胡乱な目で見つめられ、レオはふっと微笑んだ。
「本当に、そう思ってる」
本心だった。
どこでもいい。ジェルソミーナと会えるなら。
「……尼僧ですよ」
カルミネがそう釘を刺した。レオが道ならぬ思いを抱いているのは、とっくに気づいているのだろう。
「それにほら、五年も会ってないんでしょ? それだけ経てば、人って変わるものですよ。ジェルソミーナ尼はもう、旦那の思っているような人ではないかもしれませんよ」
そんなことはない。ジェルソミーナはジェルソミーナのままだと思う。
レオの思っていることが何となく伝わったのか、カルミネはお化けの話で子供を怖がらせる大人のように、おどろおどろしい声で囁いた。
「もしかしたら、とんでもないお転婆になっているかもしれませんよ……?」
「とんでもないお転婆なのは昔からだよ」
「何ですって」
「何でお前が怒るんだよ」
広場の即興喜劇のようだった。
レオは笑って立ち上った。
「何か食べにいこう」
「何かって何ですか」
「お前の好きなものでいいよ」
カルミネが恭しく差し出すコートを受け取り、さっさと腕を通す。
「この話はこれで終わりだ」
このまま話を続けていたら、カルミネはレオが「分かった。彼女のことは諦める」と言うまで、人の世の道理を懇々と教え諭すだろう。
きっとこんな風に。
――旦那ァ、何度も言いますが、あの人は尼僧なんですよ……俗世の人間の手の届かぬ人なんです。諦めた方がお身の為ってやつですよ。分かるでしょ……?
分からないよ。分かるはずがない。
――今のはなかったことにしてあげよう。
そう言って笑ったジェルソミーノと同じくらい――分かってないのはお前の方だ。
「でも、僕はお前が好きだよ。カルミネ」
そんな日は来ないことを願うけれど、レオが手ひどく振られた時は、カルミネはきっと何も言わず、隣に座っていてくれるだろう。
カルミネはレオの言葉が聞こえていなかったように、じっと前方を見つめていた。
レオは扉を開けながらもう一度囁いた。
「好きだよ」
「……知りません」
「知りませんって何さ」
誓ってよこしまな気持ちはなく、レオはカルミネの頬を手のひらでつつんだ。
マリーノがよく、レオにそうするように。
え、熱い……。
ふと見れば、カルミネの顔は真っ赤になっていた。
「ご、ごめん」
レオはとっさに謝罪の言葉を口にし、慌てて手を離した。
「この女たらし!」
「ええー……?」
カルミネは不実な男に弄ばれた女の子のように、目を潤ませてレオを睨んだ。
「まったく、見境のない。いずれヴェネツィア中の令嬢たちが、あなたの餌食になるんでしょうね!」
その瞬間、朝焼けの薔薇色の中で、皮肉に口元を歪めたあの人の声が蘇った。
――まったく、末恐ろしい……。いずれヴェネツィア中の令嬢たちが、君に夢中になるだろうね。
「何が可笑しいんですか!」
「昔、似たようなことを言われたよ」
くすくす笑いながらレオが答える。
いや、似てないか……? お前の方が、僕への評価がかなり手厳しい。
「ほらね!」
「言われたのはその人とお前だけだよ」
お前は何でそんなに怒ってるんだか。
女の子でもないくせに。
カルミネともう少しじゃれ合いたくて、レオはカルミネの顔を悪戯っぽく覗き込んだ。
「誰彼構わずこんなことを言いはしないけど、頬の熱を取ってあげようか」
「結構です」
「でも、熱くて困ってるだろ?」
「お構いなく」
「ねえ」とレオは食い下がった。
「お前に触りたい」
「だからそういう……。んもう! パリ帰りはこれだから!」
レオは心外だと言わんばかりに顔をしかめた。
「誤解だよ。あっちじゃ修道士より清らかな暮らしぶりだったんだぞ」
「へええ~。修道士ってヴェネツィアの?」
「バチカンの」
「そりゃお盛んなことで」
カルミネがぷはっと笑った。
「冗談だよ。本当に清らかだったんだから」
「どうだか」
「いいから、ほら。ほっぺたをお出しよ。冷やしてあげるってば」
「遠慮しときます。僕のほっぺたなんて、触って楽しいもんじゃないですよ」
レオが伸ばす手を、カルミネがひらりとかわす。
細身のフロックコートと、小さな黒マントは、くっついたり離れたりしながら、楽しげに路地を歩いていった。




