46.危険な男1
「――ジェルソミーナ尼がお会いになるそうです」
「えっほんと?」
レオはあばら家に吉報をもたらした使者の両脇に手を差し入れ、高々と抱き上げた。
「ちょっと、旦那……!」
「よくやった、カルミネ」
恋する男はできた助手を労い、うきうきとした顔で「で、いつ?」と訊ねる。
「明後日……デッレ・ヴェルジニ修道院で、仮面舞踏会が開かれるので」
「女子修道院でか」
さすがヴェネツィア、と噛みしめるように呟くレオに、
「謝肉祭の時期だけは、許されていますから……」
と、カルミネは彼の罪でもなかろうに、ヴェネツィアの放埓を恥じて目を伏せた。
「この日なら旦那の訪問も、それほど目立ちはしないでしょう……と、ジェルソミーナ尼が」
「僕が行くと、ジェルソミーナは困るのかい」
そう訊ねてからようやく気づいた。会いたい気持ちが先走って、彼女の体面への配慮が頭からすっかり抜け落ちていたことに。
「だよね……」
言われてみれば、レオは十二の年まで庶民だった俄か貴族で、呪われたクッキアイオ家の跡取りで、人にも魔物にもなりそこなった半端者だった。清らかな神の花嫁が、こんな者と会っているところを見られたら、心無いことを言われるのかもしれない。
カルミネはキッとレオを見下ろした。
「旦那が夜の方がいいと言ったからじゃありませんか。ですが、そもそも夜に尼僧を訪問したがる紳士なんて、僕は聞いたこともありませんからね。いいから降ろしてください」
あ、僕は「男」扱いされてるんだ……。
恋人と言われた訳でもないのに、レオはそれだけで面映ゆく、子供をあやす要領でカルミネを何となく揺らす。
「ねえ、ジェルソミーナは僕のこと何か言ってた?」
期待と不安がない交ぜになった灰色の瞳に見上げられ、カルミネは自分の意思とは無関係に足をぷらぷらさせながら、
「ふ、古い友人だと」
「憶えててくれたんだ」
「そりゃそうでしょ」
レオとジェルソミーナがどんな関係だったのか、一切知らないはずのカルミネがぽろりと口を滑らせた。
「何がそりゃそうなんだい」
浮かれているレオはカルミネの失言に気づかず、鼻歌でも歌い出しそうな勢いである。
カルミネはハァとため息を吐き、
「いいから、そろそろ降ろしてくださいよ」
「分かった」
「きゃあっ」
レオが腕の力を緩めた瞬間、カルミネは女の子のような悲鳴を上げてレオにしがみついた。
「ごめん、そんな、驚かせるつもりじゃ……」
ちょっとした悪戯心で、落ちてきたところを抱きとめるつもりだったのが、カルミネの反射神経が良過ぎて逆に登られてしまった。カルミネは重い方ではないが、咄嗟に肉の重さを引き取らなければ、二人して床に倒れ込んでいたかもしれない。
カルミネのあえかな吐息がレオの首筋にかかり、レオは夢の中にいるような気持ちになった。
「お、落ちるかと思った……」
「お前を落としたりなんてしないよ」
「そんなの分からないでしょ」
レオの首筋にきつく腕を絡め、拗ねた女の子のような物言いをするカルミネが可愛くて、ごめんと言おうとしていたはずの口元が勝手に緩んで何も言えなくなった。
何で、お前はそんなに――。
あの人によく似たカルミネが、もし本当にあの人だったら。
「……分かる。絶対に落とさない」
レオの体にしっかりと足を巻き付けているカルミネの尻を片手で支え、レオは華奢な背中を宥めるように撫でてやった。
分かってる。この子はあの人じゃない。
彼女なら、こんなあられもない恰好は絶対にしてくれない。というより、カルミネも普段なら絶対にやらない。
「ねえ、お猿さん。お前は本当に運動神経がいいね……」
降ろしてもらおうとカルミネがさっきからもそもそ尻を動かしているのは気づかぬ振りで、レオはからかうように囁いた。
「誰が猿ですって」
レオはくっくっと肩を震わせる。
もう笑うしかない。カルミネはそんなところまでジェルソミーナとよく似ていた。足場が決して良いとは言えない、ヴェネツィアの高い屋根の上を危なげなく歩く彼女の後ろ姿は、朝焼けの淡い薔薇色と共に、レオの心に深く刻みつけられている。
――お嬢様。
――ジェルソミーナと。
カルミネにしがみつかれていることが何故だかとても幸福で、レオはカルミネを抱き寄せたまま、夢見るように呟いた。
「ジェルソミーナ……」
――愛しい人。
その瞬間、カルミネがレオの腕の中で大きくもがいた。
「うわっ」
バランスを崩したレオが、カルミネを抱いたまま床に倒れ込む。
「あっ、す、すみませ……」
「落とさなかっただろ?」
カルミネの下敷きになったレオの、物憂い灰色の瞳がカルミネを見上げている。
「旦……」
バウタの目の部分から覗く、濃緑の海をうっとりと見つめ、レオがバウタに手を伸ばした。




