45.天使と悪魔たち5
「そうだろうな。彼の主――この場合はベルトランド・ミディーカではなく、お前が人間の協力者と呼んでいる者のことだが、その者としては、ひとまずヴィルジリオを世間の目から隠し、後のことはそれから考える腹積もりだったのだろう」
社交界を賑わす年齢不詳の美女と、押しも押されもせぬ旧家の子息の、これ以上ないほど放埓な醜聞。
「普通に考えたらトゥリパーノさん?」
「動機の面では間違いなくそうだろうが、実行力という点でやや疑問符がつくな。事件の翌朝、恐ろしいほど速やかにゴンドリエレの替玉を手配したことといい、調査官たちの必死の捜索にもかかわらず、ヴィルジリオを今日まで完璧に隠匿していることといい、これだけのことをやってのけるには、トゥリパーノの当代当主はあまりにも凡庸だ」
「じゃあ、トゥリパーノさんのお友達?」
「そうだな。この事件の協力者とやらは、トゥリパーノ家と大変に縁の深い者であろう」
舌なめずりする猫のようなマリーノも美しかった。
「その者はヴィルジリオと魔獣を結び付けることなく、曖昧に決着させるつもりだった。だが、彼の仕業だとお前が早々に宣言してしまったことで、予定が狂ってしまった」
マリーノは実に楽しげにクッと笑う。
「お前のせいで気の毒に」
それは悪魔の言葉で「でかした」という意味だった。
マリーノには目星がついているのか、おっとりと呟いた。
「トゥリパーノが泣きつく相手なんぞ限られている。ま、この先は政治の話となるな」
「大物だから手が出せないってことだね」
「慎重にやる必要があるということだ」
体よく言い換えて、マリーノはふと真顔になった。
「……ヴィルジリオは随分弱っているのか」
「さあ」
「だが、お前はそう見立てたのだろう?」
「それはトゥリパーノがっていうか、魔獣の話」
「そうか。では、それほど弱っているのなら、人間の協力者とやらは何故、未だみすみす彼に人を襲わせているのか。その者が彼の暴走を止めることはできぬのか。更に言えば、何故ヴィルジリオは何度も体に魔を降ろすのか。体への負担も大きいだろうに」
レオに問いかけているような、独り言のような、どちらともつかぬ口調だった。
「何が起こっているのかは分からないね。そうするしかない状況に陥っているのかも」
最初に逃げも隠れもせず、体を見せてくれていたら、話は違っていたかもしれないのに。
レオはぽつりと訊ねた。
「彼とは仲良かったの?」
旧家の息子で、放蕩者で、節操なし。考えてみれば、ヴィルジリオ・トゥリパーノは、マリーノとはいかにも気が合いそうだった。
マリーノはふんと笑った。
「知っておきたいだけだ――どんな小さなことでも」
お気楽マリーノが影を潜め、惚れ惚れするほど威厳に満ちた、ヴェネツィア総督の顔になる。
「私が下す判断は、常に共和国にとって最善のものでなくてはならない」
第百二十二代ヴェネツィア総督、マリーノ・フェリエラは静かに宣告した。
「共和国は明日、サン・ポーロ地区への夜間の立ち入りを禁止する布告を出す」
おや、とレオが眉を上げた。
あれが出るのか。共和国のお家芸、有無を言わさぬ強権発動が。
「事態が収束するまでは、何人たりとも許可なく夜のサン・ポーロを歩かせぬ」
マリーノの言葉は、これ以上の犠牲者は出さぬという、並々ならぬ覚悟そのものだった。
賭博場も娼館も、ヴェネツィアの夜を彩るすべての店は軒並み休業であろう。共和国がこういうことをする場合、営業店舗への休業補償は必ず行われるのだが、サン・ポーロ区民の反発は必至だった。
「あいつが贄を食まずにどれほど持つかは知らぬが、それまで持ちこたえられていたら、その時はレオ」
普段は尊大なマリーノが、少し疲れた声で囁いた。
「祓ってやれ」
「分かった」
「処刑は不可避だろうが、人として死なせてやれるものなら」
「うん」
「……」
マリーノはふいと窓の外を見上げた。
「ま、それほど待たせはしないだろう……。替玉たちの身元はもう間もなく割れるだろうし、例の家令は共和国の優秀な調査官たちが虱潰しに探している」
「へえ……奇遇だね。例の家令の捜索については、僕もサン・ポーロ地区の皆にお願いしてるんだ」
「ほう」
レオとマリーノの視線が絡み合った。
――どちらが先に家令を見つけるか。
「それは、頼もしいな……?」
この余裕の笑顔が、本当に腹立たしい。
「ああ、そうだ。レオ」
「なあに」
マリーノは笑みを収め、真剣な表情になった。
「調査官たちの中にも、お前のことを微塵も疑っていない者がいるように、サン・ポーロ区民の方でも、一枚岩ということはないだろう。犠牲者が出た家、調査官の生家、そういった家の者がお前を疑い、思いもよらぬ行動に出るかもしれぬ。用心しておけ」
「うん……」
ロベルトのことが頭をよぎった。あれから一度も彼と話をする機会はなかったが、ロベルトの方ではもう、レオに対する疑念は消えることはないだろう。
「生意気に、そんな顔をして」
「仕方ないだろ。半分は人間なんだから……」
マリーノの手がレオの頬を包んだ。
「こういうことも含めて、全部背負ってゆけ。水鳥の呪いを受け継ぐ者よ」
突き放すでもなく、憐れむでもない、淡々とした声音だった。
「うん……」
何となく頬を預けたまま、レオはマリーノを見上げてぼそりと言った。
「あのさ、ありがと。マルコのこと……」
「何のことだ。若く優秀で、しかもかなりの半魔否定派らしいマルコ・パツィエンツァを十人委員会にねじ込んだのは、私ではなくニコロ・パーリア総督補佐官だが」
「ああ、そう仕向けたんだ……」
悪魔より悪魔、と半魔の子はさっと身を引いた。
そうだった。ここはヴェネツィアの中でもとりわけ魑魅魍魎がうようよしている魔の巣窟、総督宮殿。決して長居してはいけない。
「じゃあね」
と足早に扉へ向かうレオの背を、楽しげな声が追いかけた。
「我が娘によろしく」
「……」
レオは返事もせずにふいと部屋を出ていった。
レオの愛しい尼僧がいるサンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院はヴェネツィア総督の管轄下にあり、尼僧たちは慣例的にヴェネツィア総督を父上様と呼ぶ。




