44.天使と悪魔たち4
「だが、お前の読みはどうも甘いな」
マリーノはおっとりと顎に手を当て、流し目にレオを見た。
「あれがカテリーナ・ミディーカの美容道具の成れの果てだと言うのなら、ヴィルジリオは何なのだ」
……何なのだ?
きょとんとするレオに、マリーノもまた不思議そうに、
「人に憑依せずとも実体を取れるのなら、ヴィルジリオは不要だろう。ならば何故、彼の行方は未だ分からないのだ?」
「あー、うん……」
言われてみればその通りだった。
憑代でもない。召喚者でもない。ただあの場に居合わせただけの、哀れなチチズベーオ。それならば、彼が身を隠す理由も、誰かに拘束、あるいは保護されている理由もない。
えーと、じゃあ、トゥリパーノに憑依して……? と、レオが安易に答えるより先に、それを見越したかのような追求の声が飛んできた。
「それともやはり憑代が必要で、ヴィルジリオに憑依したのか。メルクリオ・エズィレが見た、黒い長毛種とやらが彼なのか。ならば、ヴィルジリオはどうやって人と魔獣の間を行き来している? 少なくとも一度は人間に戻っているだろう? ミディーカ宮で助け出された後の彼の振舞いは、どう考えても本人臭い。よもや魔物が彼の意識を乗っ取り、彼になりすましているのか。暴走して召喚者を喰いちぎるような未熟な魔に、そのような真似ができるのか」
「それは……」
レオがぐっと言葉に詰まった。
「ミディーカの奥方が何らかの目的で黒魔術を常用し、あの夜に限って手違いが起きた、というお前の読みは悪くない。だが、もし彼女の目的が美容なら、ヴィルジリオのいない時にやると思わないか。普通、女はそういうところを男には見せたくないものだ」
この男はヴェネツィアの国家元首か、女心を知り尽くしたドン・ファンか。両方だ。
「まだ分からぬか。愛人がいる時に寝室で使う魔術など、どういう類のものか大体見当がつくだろう」
マリーノは殊更にレオの耳元に顔を寄せ、無駄に美しい天鵞絨の声で囁いた。
「この場合はヴィルジリオをある意味、魔獣にするものだった――と私は推測するのだが、お前はどう思う?」
「……」
どう思う、と言われても。
天鵞絨の声は続けて、
「首筋への執着は、恐らくミディーカの奥方が、歯を立てられるのを好む場所がそこ――」
「あっ、もう。分かったから」
レオが真っ赤になってマリーノを遮った。
その反応にマリーノはおや、と体を離し、レオの顔を覗き込んだ。
「お前、パリで済ませてこなかったのか」
「済ませてなくても別にいいだろ」
レオがふいと顔を背ける。そういうことはジェルソミーナとしかしたくなかった。初めても、その後も。勿論、彼女がいいと言ってくれればの話だけど。
「別にいいが」
「マリーノの言っていることの方がしっくりくる」
と、レオは黒魔術美容説をあっさりと引っこめた。
手馴れた二人がこの世のものならぬ強壮剤として黒魔術を常用し、あの夜は些かやり過ぎた。トゥリパーノは魔獣並みどころか本物の魔獣となってしまい、愛人を喰い殺してしまう。
レオが漆黒の睫毛をそっと伏せた。
「でも、その時の記憶は彼にはない」
「ああ。だが、血だまりの中にいるカテリーナ・ミディーカを見た時――」
気づいただろう、とは敢えて口に出さずとも。
そして、それこそが、ヴィルジリオ・トゥリパーノが憔悴していた本当の理由だったのだろう。
マリーノはふんと皮肉な笑みを浮かべた。
「ここで、例の家令の登場だ」
レオは物憂い不機嫌顔で頷いた。
してやられたと言うしかない。
ミディーカ家の家令は、調査官ロベルト・エズィレの訪問を受けた後、何故か行方が分からなくなった。
「悔しい。ミディーカさんが中途半端に怪しかったものから、そっちにばかり気を取られてた」
レオのよく知る家令よりも悲しげでなく、家令という役職の響きから連想される年齢よりも幾分若い、あの家令。
――後のことは私に任せて、ひとまずは身をお隠しください。
うろたえるトゥリパーノに、こんな風に囁いただろうか。
常日頃から二人が何に耽っていたか、家令は知っていたはずだ。
あの夜、何が起こったのかも。
だからこそ、魔獣がいたとされる部屋で、寝台の垂布を引き上げもせず、暢気にトゥリパーノの世話ができたのだろう。
――部屋の中のものは何かいじった?
――寝台の垂布を上げました。魔獣が潜んでいるかもしれなかったので……。
普通なら真っ先にそう思う。
だが、寝台の垂布を引き上げたのは、家令ではなく後から現場に到着した調査官だった。
――ええ、いつもの二人が腹を下したとかで、臨時の者が参りました。ですが言葉遣いもちゃんとしていて、疑う余地もなく……。エ? 人相ですか? ええと確か……。
果たしてレオの読み通り、ゴンドラ漕ぎはすり替わっていた。偽者たちの人相について、家令の記憶は実に曖昧だった。ロベルトは他の使用人たちにも確認し、それなりに満足のいく回答を得て、ミディーカ宮を辞去した。この時点では、家令に対して思うところは何もなかったという。
家令が姿を消したのは、その直後のことだった。
「大方、ミディーカさんをそそのかして、僕をお茶に招待させたのも彼だ」
家令としては、あの時、レオにトゥリパーノを追わせる訳にはいかなかったのだろう。
「彼がトゥリパーノを逃がしたのは、醜聞を隠蔽する為?」




