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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第4章:初恋は実らないと人は言うけれど

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43.天使と悪魔たち3

「――マルコは本っ当に、お前に甘いな……」


「ねえ……そろそろ離してよ……」


 大粒の宝石に彩られた、ごつごつとした男らしい手指は、一向にレオの頬を離す気配がない。すぐ目の前にある不機嫌な表情は、元が良いだけにその辺のどんな魔物よりもいっそ恐ろしかった。


 レオはマルコの言いつけ通り、誰も煽らず大人しくしていたというのに、何故こんなことになってしまっているのか。


 事態はレオにとっても共和国にとっても、はっきりと最悪の方向へ向かっていた。


 穏やかな年配の調査官を聞き役として、十一歳のメルクリオ・エズィレからようやく聞き出したところによると、あの夜、隣を歩いていた姉の姿が急に消えた為、彼は姉の名を呼びながら、たった今通り過ぎたばかりの小路に入ってみたという。


 ほんの少しだけ差し込む薄明りの下、メルクリオはそこで、変わり果てた姉の姿と、姉のそばをうろつくおぞましい魔獣の姿を見る。


 一目で魔獣だと分かった、という。


 メルクリオによると、魔獣はつやつやした黒く長い体毛に覆われ、どろりと濁った灰色の目をしていた。あの日、後から来た若い男の人、つまりレオに顔立ちがどことなく似ていたという。


「この証言は悪意があるか、誘導されてるだろ」


「だがこの子はお前を見た瞬間、パニックになったそうじゃないか。おおむねこの通りなのではないか?」


 意外にもと言うべきか、魔獣はメルクリオを襲わなかった。


 それどころか、その場から一歩も動けずにいるメルクリオには目もくれず、一飛びで夜の闇の中に消えていったという。


 メルクリオの絶叫が辺りに響いたのは、その直後のことだった。


「魔獣って、飛ぶんだね……?」


「今、問題なのはそこではない」


 この証言に加え、レオに対するメルクリオの尋常でない怯えよう、更には魔獣の出現がレオの帰郷直後からであること、襲撃は必ずレオの住むサン・ポーロ地区で起こっていること、レオが問題の夜に限って中心部ではなく外れに向かい、リーアが襲われていたであろう時刻に誰もレオの姿を見ていないこと。


 マリーノはぎゅうぎゅうとレオの頬を挟みながら、額を擦りつけるような勢いでレオに顔を近づけた。


「おい……今パーリア殿がそこから入ってきて、『あの半魔を幽閉しましょう』って言ったら、私は『そうだな』って言うしかないからな……?」


「えええ……総督はマリーノだろ……? 補佐官相手にそんな弱腰でどうすんのさ……」


 悪魔と悪魔が互いに一歩も引かず、至近距離で睨み合う。


「――ふん」


 マリーノがレオを解放し、ちょい、とレオの額をつついた。頭の痛い問題はまだある。


「それと……サン・ポーロ区民のことだが」


「あれは僕にはどうしようもないよ……」


 ここへきてレオと魔獣を俄かに結び付け始めた十人委員会と、「レオがそんなことする訳ないだろ。このクソ十人委員会が」といきり立つサン・ポーロ区民の対立が激化し、捜査に支障が出始めているらしい。


 皆の気持ちはありがたいのだが、彼の英雄、ナポレオンのフランス語に「不可能」の文字が無いように、ちゃきちゃきのサン・ポーロ弁にも「穏便」の文字は無い。今回はサン・ポーロきっての穏健派であるパオロまでもが激怒しているというのだから、沈静化のしようもなかった。


「彼らの……あれは……どこまで本気なのだろうか……」


「ああ、サン・ポーロ自治州? 勢いで言ってるだけじゃない? そのうち飽きて……」


 着火したサン・ポーロっ子の勢いは止まらない。どこから聞きかじったか、昨今の国際情勢に乗っかるように「こうなりゃ独立だァ!」などと息巻く者まで出る始末で、マリーノの美しい顔にも、ますます憂いの影が落ちるというものだった。


「ただでさえ我が共和国は、ヨーロッパの大国から見れば、顔の中のほくろ程度の大きさなのに……。これで自治領なんぞできたらいい笑いものだ」


「もう笑われてんでしょ? 魔獣対応がお粗末だとかで」


「お前が言うか!」


 ヴェネツィアを襲った魔獣騒ぎは、矢の速さで尾ひれをつけてヨーロッパ諸国へと伝わっていた。


 ここでヨーロッパが思い出すのは、かつてフランスはジェヴォーダン地方で起こった、謎の獣による住民への襲撃事件である。


 フランス王室が何ら有効な手を打てぬまま、おぞましい獣は主に女と子供を襲い続け、犠牲者の数は最終的に百人を超えたと言われている。


 謎の獣を遂に仕留め、事件に終止符を打ったのは、王が遣わした兵士ではなく地元の猟師だった。


 当時は他のヨーロッパ諸国と一緒になって、フランス王室の無策を散々嘲笑ったヴェネツィアだったが、今やあの時のフランスとまったく同じ立場に立っている。


 マリーノは傾国の美女もかくやという憂い顔でため息を吐いた。


「嘲笑はもういい。好きに笑え。だが、この問題が長引けば……」


 ヴェネツィアにとって痛いのは、外国人たちが魔獣を恐れ、ヴェネツィアで遊ぶのを控えるようになってしまうことだった。


 外貨で生きているヴェネツィアにとっては致命的である。


 魔獣問題は既に、共和国の治安上の問題というだけでなく、内政、外交、経済問題ですらあった。


「お前と私と共和国が一気に窮地を脱する方法がある。それは魔獣問題を解決することだ」


「うん」


 事ここに及んで、ようやく悪魔同士が真剣な顔で手を取り合った。

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