42.天使と悪魔たち2
「あの子も昔はお転婆だったけど、今ではすっかり落ち着いてね。もしかして、修道院に入った経緯は知っている?」
「ひどい男に侮辱されたんだろ」
怒りのこもった眼差しで、ぎろりとマルコを見上げる様子は、遠目には「僕じゃないって言ってるだろ」と吐き捨てているようでもあった。
「うん、まあ……。それで、縁あって妹が頼ったのが、デッレ・ヴェルジニ修道院なのだけど、ここはヴェネツィア総督の管轄で、妹を不憫に思ったマリーノ様が、何かと気にかけてくださったんだ。妹はカルミネとは特に親しくないそうだが、マリーノ様のお役に立てるなら本望だと言っていたよ」
「マリーノめ……」
小さな呪詛の声がレオの唇から漏れた。悪魔のようなあの男は、ジェルソミーナから随分慕われているではないか。取り次いでくれてもよかったのに。
「私からの連絡事項は以上だ。さあ、君の痛くもない腹を探られる前に、さっさと事件の真相を暴くぞ。小さなメルクリオは、君が魔獣であるかのような反応だったが」
「あれには本当にびっくりだよ」
何しろレオにはまったく身に覚えがない。だが、メルクリオはたった今、暗闇の中に見たものをレオの中に見出した。彼は一体何を見たというのか。
レオがはっと思いついたようにマルコを見上げた。
「マルコ、ヴィルジリオ・トゥリパーノと面識はある? もしかして彼の背恰好は僕と似ているのかな」
実のところ、レオは未だにトゥリパーノの外見をよく知らなかった。彼について知っていることと言えば、軽薄で年増好きということぐらいである。
「うーん……面識はあるが、あまり似てないな……。ヴィルジリオは金髪で、男振りがよくて……何と言うか、大人の男の体つきをしている」
すまなさそうに言われ、余計傷ついた。同年代と比べても、自分が細身で小柄なことは知っている。
「まあ、君はまだ成長期だし、でも本当に大きくなったよ、あの頃と比べたら見違え……」
「いいよ……。それより、リーア・エズイレの体が見たい。匂いも嗅ぎたい」
意図してのことではなかったが、カルミネがいればバウタの下で眉をひそめそうな物言いになった。
「分かった。では、私に監視されながら、検分といこう」
マルコはレオを連れて現場へ戻り、一通り報告を受けた後、君たちは外してくれと調査官たちに命じた。
調査官たちが心得たようにさっと引き、レオは少女の遺体に屈む。
冷たい路地に横たわるのは、まだ蕾のようなリーア・エズィレ。十五歳。サン・ポーロ区民。
姉弟がこの時間帯に二人で外出していた理由は不明だが、治安の良いヴェネツィアで、街中の子供が夜間に外出するのは珍しくもないことだった。魔獣が出没する前と同じ感覚だったのだろう――と、大人と子供の中間のような、物言わぬ体を見下ろしながらレオは思う。
虚ろな目。大きく欠落した首元。首元以外の全き安らかさ。
すべてが今までの犠牲者たちと寸分違わず同じだった。
レオはロベルトの妹に屈み、そっと顔を寄せた。
今度は捉えた――微かな魔の匂い。
だが、カテリーナ・ミディーカの体に残っていた匂いとは、比べものにならないほど弱い。
デルフィーナ・サーリの時と同じく、時間が経てば風に紛れて消えてしまいそうだった。
「君の見立ては?」と、いつの間にかレオの隣に同じように屈んでいた、お目付け役の熾天使が訊ねた。鈍色の金髪が篝火に照らされ、まるで光の輪の中にいるように見える。
「この魔獣は弱っているか、寿命が尽きかけているのだと思う……」
「根拠は」
レオは遺体に残る魔の匂いを嗅ぎ取れること、リーアの体には匂いがほとんど残っていないことを説明した。
「それに、吼えなくなった」
辺りに轟くほどの咆哮は、最初の一度きり。
あれは産声だったのだろうか。
魔獣の力は恐らくあの時が絶頂で、今は子犬ほどの鳴き声すら上げることはない。
召喚が不完全だったか。或いは、召喚者が既に死んでいるからか。
――四十を超えていますが、とてもそうは見えないと評判だったようで……。
――美人で気が強くて、体形は勿論、崩れてなくて。何と言うか、若い男の生き血をすすって、若さを保っているような感じの。
「マルコ……僕は見誤っていたかも」
レオは物憂い灰色の瞳をとろりとマルコに向けた。
「魔獣を呼び寄せたのは、カテリーナ・ミディーカだ」
「カテリーナ・ミディーカが? 何故に」
「狙ってやったというより、事故のようなものだと思う」
麗しのカテリーナは恐らく、黒魔術のようなものを使って美と若さを保っていた。若い男の新鮮な生き血をすするのではなく、その逆の方法で。
「魔獣を召喚し、何らかの方法で弱らせたそれを使役して、古くなった悪い血を定期的に吸い取らせていたんだ。医療行為でいう瀉血だよ」
それは、人であり続けたければ、決して手を伸ばしてはならない禁断の果実。
その効能を知ったのは、恐らく偶然だっただろう。
魔の領域にある者との接触により、彼女の体は人の世の道理を超えた美と若さを得た。
あの夜、呼んだ魔獣を制御できなかったのは単に不幸な手違いで、危うい美容法が遂に越えてはならない一線を越えたのだ。
「本人は死んでしまっても、喉から血を吸うという契約は残ったまま。だから魔獣は生き血を吸う為に、若い娘の喉を狙った」
「それで首以外は無傷だった、と。成程、筋は通る」
大きく抉れた喉を見下ろしながら、マルコが頷いた。
「マルコ、カテリーナ・ミディーカを調べよう」
多少は調べられているだろうが、それは被害者としてであり、召喚者としてではない。
「ほんの少しでも何かが分かれば、魔獣の正体に近づける」
「分かった、では――」
「僕ら二人で」
すぐにでも調査官たちを呼ぼうとするマルコの腕をつかみ、レオが囁いた。
「――秘密裡に」
甘く物憂い灰色と、晴れ渡った海の青が、篝火の下で見つめ合った。
「君がそう言うのなら」
マルコは優しい恋人のように応えた。
「悪魔に限らず魑魅魍魎が跋扈するヴェネツィアで、慎重になるのは良いことだ。だが表立って君と二人で、というのは難しいな」
あ、と失念していた設定を思い出し、レオが気まずげに手を離す。
マルコはレオの頭を宥めるように撫でようとして、急いで手を引っ込めた。
そそくさと立ち上がりながら、
「その件はこちらで預かろう。君はせいぜい、無害ないい子の振りをしておくことだ」
マルコは冷ややかに言い放った。
「上手にできれば、本件解決後にチョコレートを奢ってあげよう」
遠目には「お前の正体は分かっているのだからな」と言っているように見えたかもしれない。




