41.天使と悪魔たち1
夜更けの総督宮殿、第百二十二代ヴェネツィア総督の小さな執務室で、鼻にかかった物柔らかな若い男の声がした。
「――マリーノ!」
「そう度々来るな」
そう言いつつも、マリーノは待っていたかのように菓子器の蓋を開け、レオを差し招く。
「要らない」
「ああ、すまない、子供扱いする気はなかったのだが」
「え……?」
普段のマリーノらしくない、素の物言いにレオが目を瞬かせる。
余裕のない自分に気づいたのか、マリーノはふんと自嘲すると、近寄ってきたレオの頬を両の手のひらで包み込んだ。
「――どうして、こんなことになった」
「知らないよ……」
レオはマリーノのごつごつとした大きな手に何となく頬をすり寄せる。
本当に、どうしてこんなことになったのか。
三番目の犠牲者、リーア・エズィレは六人兄妹の五番目の子で、まだ十五歳だった。
殺され方はデルフィーナ・サーリと同じ、細い路地に引き込まれ、喉を喰い破られての一瞬の死である。
小さなメルクリオが気を失い、辺りが騒然としかけた頃、現れたのは意外な人物だった。
「――道を開けてくれ」
マルコ……?
明るい海の色の瞳。辺りを払う堂々たる物腰。
天から遣わされた熾天使のごとき貴公子が、調査官たちの上役を従え、穢れたヴェネツィアの地に降り立っている。
鈍色の金髪を街灯の明かりに浮かび上がらせ、美しい貴公子は朗々と名乗った。
「私の名はマルコ・パツィエンツァ。十人委員会の末席に名を連ねる者だ」
調査官たちがはっと首を垂れる。
「最近、お一方が交代されたと聞きましたが。随分若い委員ですね」
ジャンニがレオにだけこっそりと囁いた。
これも時代の流れだろう。あらゆる政府機関で、少しずつ年齢制限の引き下げや撤廃が始まっているが、十人委員会においては、任期半ばでの交代要員にのみ、年齢制限が適用されなくなった。
「現場を封鎖し、調査を開始せよ。メルクリオ・エズィレは何かを目撃している可能性が高い。が、今日は休ませ、後日改めて話を聞くように」
マルコはレオに目もくれず、調査官たちにきびきびと命じる。
「じゃ、ヴィンチ殿、後で」と、ジャンニが他の調査官たちと共に行ってしまうと、マルコがレオの退路を断とうとするように、レオのすぐそばに立った。
「レオナルド・クッキアイオ殿だろうか。あなたと二人で少し話がしたい」
「あ、はい……」
「こちらへ」
天使に捕縛された悪魔さながら、レオはマルコの後をすごすごとついていった。
皆から十分離れたところに来ると、マルコは険しい顔のまま囁いた。
「どこで誰が見ているか分からないから、私に何か問い詰められているように装ってくれ」
「え……う、うん」
レオが表情を作り、了承の証に頷く。
「久し振りだというのに、抱擁もできず、すまない」
マルコはそう言って、冷ややかな眼差しをレオに向けた。
「マリーノ様が私を委員会にねじ込んだ。何かあれば君を守れるようにと。――早速、窮地に陥っているようじゃないか」
「信じて。僕じゃない」
演技ではなく、心からの訴えだった。
「信じるさ。君の仕業にしては、諸々、随分とお粗末だ。だが、聞いているぞ。パーリア殿を散々煽ったな?」
またもや演技の必要もなく、レオはいかにも疚しい顔つきでマルコから目を背けた。
「過ぎたことはもういい。それより、私は君に対して、疑いの目を向けていると思われていた方が動きやすい。すまないが――」
「うん」
皆まで言うなとレオが遮った。
マルコは微かに頷き、威圧的に顎を上げた。
「君との接触も最小限にする。今後、私に何か伝えたいことがあれば、君の助手のカルミネに言付けるか、手紙を託してくれ」
「カ、カルミネを知ってるの⁉」
異母弟かもしれないカルミネを⁉ という言葉が舌の先まで出かかった。マリーノには否定されたが、レオは依然、その疑いを捨てきれていない。だってカルミネはあんなにもジェルソミーナとよく似ているではないか。
「ああ、随分聡い子らしいな。私はどうも運が悪く、一度も会ったことがないんだが」
「そうなんだ……」
「うん。ただ、うまい具合に、彼は私の妹がいる修道院の使い走りらしくてね。これはマリーノ様の発案なのだが、君からの伝言はカルミネから私の妹を通して私に、逆に私からの伝言は、妹からカルミネを通して君に伝えるということにしてはどうだろうか。これなら私たちが接触していることは誰にも気づかれることはないし、何より確実だとマリーノ様がおっしゃっていた」
「……カルミネはジェルソミーナと仲がいいの?」
「おや、もしかして妹を知ってるのかい」
「あ、うん。子供の頃、男装しているジェルソミーナと偶然会ったことがあって……」
そうか、とマルコは納得したように頷いた。ジェルソミーナと初めて会った日、マルコもその場にいたのだが、どうやら憶えていないようだ。ジェルソミーナが常習過ぎて、いちいち憶えていられないのだろう。




