40.夜に蠢くもの
「レオ、なんか燃えてんね……」
今夜も自警団の夜回りに参加するというレオに、パオロが微妙な表情で声をかけた。
出ていこうとしていたレオは肩越しに振り返り、
「こんなの、地域住民として当然だし」
「いや、でもお前だけ毎晩だろ。大丈夫?」
「大丈夫」
女がむごたらしく殺されるのを、これ以上見過す訳にはいかない。トゥリパーノを確保しているのが誰であれ、その人間には彼の行為を止める気はないようだ。魔獣をさっさとこの手で祓い、パーリアの鼻を明かしてやりたいという気持ちもあった。
「無理すんなよ。お前、小っちゃい時、すっごいひ弱だったじゃん」
「フン……。そんな昔のこと」
半魔は大抵脆弱で、ほとんどはうまく育たない。レオの場合は父方の血が優秀だったのだろう。年々丈夫になっていくのが自分でも分かる。今のレオなら、三日三晩裸で極寒の運河を泳いでも、多分何ともない。
「今日はどの辺を回るの?」
「そうだな……ずっと中心部ばかり回ってたけど、今日はもうちょっと離れたところに行ってみようかな」
華やかで人通りの多い場所は女性の姿も多い。獲物の匂いに引かれて現れるなら、確率的に中心部かと思ったが、さすがに女たちの方でも警戒していて、夜間の外出を控えたり、外出しても連れと一緒だったりと隙がない。
まあ、いいことだけど……。
パオロも似たようなことを思ったようで、
「そうねえ……。そっちに流れていくかもね」
「うん。じゃあね」
レオはカルミネのようにひらひらと可愛く手を振った。
「おう、頑張って。最近、女絡みの喧嘩も減ったし、ついでに酔っ払いの喧嘩も減ったし、お前と魔獣がうろつき始めてから、この辺の治安もちょっと良くなったわ」
「僕と魔獣を一緒にしないでくれる!」
今、一番されたくないことであった。
――まったく、パオロの奴……。
ぷりぷりと怒りながら、夜の街を歩く。
さて、どこを回ろうか――運河の波音を聞きながら、夜の散歩と洒落込む魔界の紳士のように、レオは街灯の明かりの届かぬ闇の中へと足を踏み入れる。
ああ、とレオは静かな夜の空気を吸い込んだ。
やっぱり夜の方が調子がいい……。
一緒にされたくないと思っても、所詮は同じなのだろう。レオも魔獣も、どちらも闇に蠢くヒトならざるモノ。
神経を研ぎ澄ませ、レオは魔獣の気配を探る。
恐らく、一瞬だ。
世にも恐ろしい咆哮を聞いたという者はいるのに、地に轟く足音を聞いたという者はいない。ヒトから魔獣への変化は一瞬、あるいは、魔獣は突如として虚空から現れ、事が終われば再び虚空へと帰っていく。
その一瞬さえ、捉えることができたら。
――あ。
体を包む闇に身を任せ、路地をどこまでも進んでいるうちに、若い女の姿どころか、人影ひとつなくなっていることに気づいた。
――戻ろう……。このままじゃ、本当にただのお散歩だ。
レオは赤い顔を夜闇に隠し、人の姿を求めてそそくさと中心部に戻っていく。
――出た……。
――魔獣……。
慄き乱れる人の声が、ぽつりぽつりと意識の中に飛び込んでくる。
――今……魔獣、と言ったか?
渦から跳ね出た水滴のような、いくつもの声に逆らうように、レオは渦の中心に向かって走り出す。
嘘だ。まさか。だって何も感じなかった。この距離で僕が気づかないなら、きっと何かの間違いだ。
「――レオ、こっちだ!」
パオロのこんな険しい声をレオは聞いたことがない。
小運河に面した小さな路地の入り口で、子供の頃からよく知っている、たくさんの背中が立ち尽くしていた。
――ああ、嘘だ。
今度こそ、はっきりと聞こえた。
「魔獣だ! 魔獣が出た!」
そんな――。
「エズィレのお嬢さんが……!」
エズィレ? まさか、ロベルトの……。
「――リーア!」
立ち尽くすばかりのレオの横をロベルトがすり抜けていった。背後に足音が連なり、調査官を名乗る声がする。
「リーア!」
「ロベルト、駄目だ」
ゴンドラ漕ぎのティーノを含む、屈強な男たちが総出でロベルトを止め、押し返そうともがくロベルトをそれ以上先へ進ませなかった。いつの間にかジャンニが皆と一緒になって、懸命にロベルトを止めている。
「リーア! リーア!」
ロベルトが獣のように吼える。
レオの後ろで低い囁き声が行き交った。
――妹だよ……。
――可哀想に……。
行かせまいと阻む腕も、辺りを取り囲む人影も怒号も、すべてが別世界のことのように、ロベルトがその場にくずおれた。
――リーアと、いうのか……。
「……悪い。通して」
ロベルトの妹は。
この先で喉を喰いちぎられ、横たわっている娘は。
レオの歩みに合わせ、入り口を塞いでいた大人たちの群れが緩やかにほどけていく。
レオが途中で足を止めた。
誰かの大きな外套にくるまった、十歳くらいの子供が冷たい路地にうずくまっている。
「あの子は……」
「メルクリオ。リーアの弟だ」
虚ろな目。色のない唇。
姉の死に様を見たか……。
かける言葉もないまま、レオがメルクリオの前を通り過ぎようとした時だった。
「アアアーー!」
メルクリオが突然、絶叫した。
落ち着かせようと伸びる大人たちの手を、メルクリオは気が触れたように叫びながら振り払う。
「メルクリオ……」
「アアアーー!」
メルクリオの怯えようは凄まじく、レオはその場に立ち尽くす。
僕が少しでも近づけば、この子は死んでしまうのではないか――。
正気を失った瞳にレオだけを映し、凍てつく冬の夜空の下、メルクリオは声の限りに叫び続けていた。
あいつだ、あいつが姉さんを、と。
第3章:夜に蠢くもの(完)




