39.愛しのジェルソミーナ4
「あ、そうだ。カル君の衝立なんだけど」
誰だよ、カル君って。
気を取り直したようにいそいそと奥へ向かうジャコモを追って寝室に入ると、狭い室内いっぱいに、美しい衝立が二基並んでいた。
「紳士の必需品、とか言ってたけど、要はカル君が部屋に置きたいんだろ? だからカル君のイメージでちゃっちゃっと見繕ってきたんだけど」
「あー、選ばせてやればよかったな。カルミネ帰っちゃった」
「いいよ。レオが選んでやりな」
「ん……」
衝立はどちらも四連で、一つは葡萄唐草の繊細な透かし彫り、もう一つは淡色の地に、風に吹かれる小さな花々が描き込まれたものである。
「こっちの、花のやつがいい……」
清らかで匂い立つようで、小さな花がまるでカルミネのようだった。
「これ、何ていう花?」
「ジャスミンだろ」
うわあああ、とレオが寝台に倒れ込む。ジャコモが何か察した顔で、さりげなく息子の隣に座った。
「お前が片思いしてたお嬢様も、確かそんな名前だったよな。ジェルソミーナ・パツィエンツァ様だっけ」
何故知っているのだろう。父の前でジェルソミーナを好きだと言ったことは一度もない。
何やら複雑な表情で起き上がった息子の肩を抱き寄せ、ジャコモは優しく訊ねた。
「まだ好きなの?」
「……」
レオは顔を赤くして、艶やかな睫毛を震わせた。普段はどこか物憂げな瞳が、熱を帯びて潤んでいる。駆け引きもごまかしも知らぬ、ジャコモにとっては遠い昔のような若い愛だった。
「あ~、レオ……お前は知らないだろうけど、お嬢様は今……」
「知ってる。尼僧だろ」
レオがむっつりと父を遮った。父がそれを知っていることの方がよほど驚きである。
「あ、じゃあ、経緯も知ってる?」
「経緯?」
レオは胡乱な目で父を見上げた。ジェルソミーナは尼僧になりたかったから尼僧になったのではないのか。
レオの視線を受け、ジャコモは苦悩する芸術家のようにぐっと眉を寄せた。
「あぁあ……俺、説明苦手……ちょっとシルヴィオさん呼んでくるから待っ……」
「要らない。いいから説明して」
レオはしっかりとジャコモの服をつかんで離さなかった。
「あー……お嬢様には、婚約者がいて……」
婚約者!
のっけから耳を塞ぎたくなるような言葉が出てきた。
「それで、え~、そいつが取り巻きたちの前で、お嬢様を侮辱して……」
「何だって⁉」
完璧な紳士に育っているレオには、俄かには信じられなかった。
体面がすべての貴族社会で何故そんなことをしたのか、あんなにも素晴らしいジェルソミーナのどこに侮辱できる要素があったのか、ジェルソミーナはその馬鹿のことを少しは好きだったのか、汲めども尽きぬ泉のように、疑問が後から後からあふれ出る。
「お嬢様は夜の闇に紛れ、その日のうちに修道院入りしたという」
なんで急に文章みたいな喋り方になったのか。
「父さんが何故そんなことを知ってるの」
「ヴェネツィア中の噂だったからなぁ……」
成程。面白おかしく新聞にでも書かれたのか。噂好きな暇人たちに、恰好のネタを提供したという訳か。
「そいつはジェルソミーナに何て言ったの」
「それは分からないけど……何か、すげえひどいことらしい」
「へえ……」
レオの瞳孔が針のように細くなった。
「あ、こら。待……」
レオの背後であばら家の壁がみしりと嫌な音を立てる。
「レオ、分かるけど」
見た目だけは儚げな魔物の、癖のない漆黒の髪をジャコモは宥めるように優しく撫でた。
「落ち着けよ。家が壊れたら困るのはお前だろ? 大体、お嬢様がそんな男と結婚しなくてよかったじゃないか」
「そんなの当たり前だ!」
ジャコモに大人しく撫でられながら、レオの優しい灰色の瞳は怒りに燃えて、街ひとつ焼き尽くさねば気が済まない。
「レオ」
ジャコモは怯む様子も見せず、荒ぶる魔性の頬をふにっとつまんだ。
「何すん――」
「いいから、お前はさっさとお嬢様を奪い返してこい」
ジャコモの理屈では、こういう時にヴェネツィア男がすべきことはひとつだった。
「神様からな」
レオが呆けたようにジャコモを見上げた。
「うん……」
そう言って、ジャコモの膝にころりと頭を乗せたレオの髪を、ジャコモは黙って撫でてやった。




