38.愛しのジェルソミーナ3
「旦那! お加減が?」
「あ、ううん、大丈夫……」
カルミネはレオの言葉も聞かず、
「エリオ、早くご自宅へ。スピード上げて。でも揺らさないで」
冷静さを欠いているのか、冷静な口調で無茶なことを言う。
どうした? 急に――。
「カルミネ、大丈夫だから……」
「――昨夜はあまり眠れていないのでしょう?」
こぼれんばかりの濃緑の瞳が、じっとレオを見つめていた。
「あまり、お独りで思い詰めないでください……」
労わりのこもった優しい言葉に、レオの冷たい心臓がぎゅっと引き絞られる。
昨夜眠れなかったのは、好きな人が尼僧になっててショックだったから、なんて。
「うん、ありがとう……」
絶対に言えなかった。
「――着いたぞ。お送りしてこい」
流れるように最後の角を曲がり、ぴたりとゴンドラを停めたエリオがぶっきらぼうにカルミネを促す。普段はいちいちこんなことを言わないのだろう、カルミネが意外そうにエリオを見た。いや、お前が言わせたんだとレオは思う。
並んで歩き始めても、まだ元気のないカルミネに、
「カルミネ、本当に大丈夫だから。大人の男はお前が思っているほどやわじゃないんだよ」
大人の男と言い切れるほど大人でもなかったが、もう十二、三の子供でもない。多少夜更かししようが、若干長めに太陽を浴びようが、翌日寝込むことはなくなっていた。
「そうですか。ご無理をさせてしまったかと」
レオの指がこつんとバウタを弾いた。
「寄り道を提案したのは僕だろ」
「そうですけど、旦那がそうおっしゃらなければ、どこかで時間を潰しませんか、って僕から言おうと思っていました」
今日は可愛い方の顔をたくさん見せてくれる日なのか、カルミネがふふっと愛らしく微笑んだ。
「実は今、旦那の家に家具が搬入されているところなんです。搬入が終わった頃に、旦那をお連れするよう言われていて……」
「あ、業者さん今日なんだ。いいよ、終わってなかったら僕も一緒に運……」
その時、レオのあばら家から丁度出てきた人物が、五年振りとはとても思えない気軽さで手を振った。
「おっ。レオ、お帰り~」
「――父さん?」
目を見開くレオの横で、カルミネがジャコモにお行儀よく一礼する。
あ、そうか、とレオはようやく気づいた。
あの家の内装を再現できる業者って――。
そっと踵を返したカルミネの背後で、ほれほれと腕を広げるジャコモに、レオが子供のように駆け寄っていった。
「レオ、立派になったなぁ……」
「……別に。背が伸びただけ」
相変わらず油絵の具の匂いがする。
「今も、描いてるの……」
「当たり前だ。うちの主力商品だぞ」
ジャコモの腕の中で、レオが猫のように目を細めた。
――今でも人気なんだ、細部の怪しいコロッセオ……。
ジャコモはリアルトの一等地で、観光客向けの土産物屋を営んでいる。
レオを育てた謝礼として、出店にあたってはクッキアイオ家が全額出資したそうだが、赤字補填を求められたことは一度もなく、いつも観光客で賑わっている人気店だという。
昨年、結婚もした。
相手は十歳年下で、クッキアイオ家がジャコモの世話係として手配していた女性だった。
最初は男を派遣していたのだが、「むさくるしい。どうしても俺の世話をしたいなら女を寄越せ」とジャコモがごねた結果である。
ジャコモとて本気でそう思っていた訳ではなく、単に付きまとわれて鬱陶しかったのだろう。
アルバニア出身、傭兵上がりの寡黙な娘が、サン・ポーロ一の色男とくっつくとは誰も思っていなかった。
シルヴィオからの報告には、「人生って分からないものでございますね」と、珍しく所感らしきものが付け加えられていた。
少し前に赤ちゃんも生まれている。
ジャコモにはもう家族がいるのだった。
「いろいろ配置したから、まあ見ていけよ」
「うん」
二人で暮らしていた頃のように、建付けの悪い扉を開けて中に入る。
「わあ……」
レオが玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
作業台兼食卓。不揃いの椅子。謎の置物。レオには不要だが、部屋の片隅には勿論イーゼルも。あの頃と何もかも同じという訳ではないが、狭くて雑多な、懐かしいあの雰囲気が忠実に再現されている。
ジャコモはごとりと重い音を立て、
「棍棒、ここ置いとくね……。変な奴が来たらこれで追っ払えよ。最近物騒だし」
「うん」
ジャコモが少し言い淀んでから言った。
「あのさ、お前、忙しいっていうのは聞いてるけど、たまにはうちに帰ってこいよ」
「……うん」
「すぐ近くなんだし」
「……ん」
「レオ――」
「分かったよ。時間ができたら行く」
「うん……」
ジャコモは少し寂しげに微笑んだ。息子の贔屓目かもしれないが、年を取ってますます苦み走ったいい男になっている。




