37.愛しのジェルソミーナ2
逃げ場のない水の上である。
後ずさろうとして思いとどまったカルミネと、一歩踏み込もうとして思いとどまったレオの、転覆を避けたい両者の思惑は一致して、互いにその場から一歩も動かない。
「ま、ま、待って、レオ、あなたを騙すつもりは……」
「分かってるさ。お前はさっさと話を切り上げて、トゥリパーノ宮に行きたかっただけだろう?」
レオの言葉にカルミネが息を呑む。
「御二方とも。すみませんが、ご着席を」
エリオに淡々と窘められ、主従は互いの動きを警戒しながら、大人しく彼に従った。
「……お前はジェルソミーナを知っているね?」
「ハ……ハイ……」
「お願いだ、彼女に伝えて。僕が会いたがっていると」
「え……」
「お願い。どうか、お願い……」
レオは漆黒の睫毛を伏せ、カルミネではなく運河の波をひたすら見つめた。
カルミネに否と言われることが恐ろしく、彼の目を見ることができない。
「うう……ううう……」
カルミネは明らかに葛藤していた。尼僧への口利きを求める不埒な男は後を絶たないのだろうか。
僕はそんな奴らとは違うと分かってもらわなければ――。
「カルミネ、ただ、会いたいだけだ……。彼女の尊厳を踏みにじるようなことはしないし、彼女を無理やり連れ出すこともしない。誓うよ。だから、どうか……」
レオは罪人のように首を垂れ、カルミネのつま先に口づけんばかりである。
「だっ、旦那ァ、顔を上げてくださいよ……」
カルミネが弱り切った声を上げるが、彼の諾を引き出すまでは、レオとて引く訳にはいかなかった。
エリオが見かねたように口を挟んだ。
「カルミネ、どうにかして差し上げられないのか……」
「んもう、ジャンニといい、君といい!」
カルミネは三角帽子を抱えてその場にうずくまった。
祈るような気持ちでレオが待つ。
カルミネはハァ……と大きな息を吐いた。
「旦那ァ……まったく、何を言っているんです? あなたは僕にそうお命じになるだけでよろしいのに」
ジェルソミーノを思わせる、皮肉っぽい口調だった。
「カルミネ……!」
「面会の約束を取りつけてくればいいんでしょ? いつがご希望です?」
やけっぱちになっているように見えるのは、きっと気のせいだろう。
「ありがとう、カルミネ、ありがとう」と、レオは目を潤ませ、
「いつでもいい。あ、できれば夜がいい」
神の家などいつ訪問しても気持ちのいい場所ではないが、日中より夜の方がまだましだった。
カルミネの目がすっと冷たくなった。
「夜……? 女子修道院を夜に訪問なさりたいと……?」
ヴェネツィアの、だろ? という言葉が喉まで出かかったが、呑んだ。今カルミネを怒らせては損だ。
「日の光に弱いんだよ……できれば夜がいいけど、無理にとは言わない」
「分かりました」
あ、と何やら思い当たったように、カルミネはすんなり引き下がった。レオが半分魔物だということを、この子は知っているのだろう。
カルミネは波に揺られながら、理知的な目を前方へ向けた。
「旦那、ゴンドリエレが入れ替わっていたとして、そのまま大運河を通ったでしょうか」
カルミネの視線の先にはミディーカ宮がある。ジェルソミーナの話はこれで終わりにしろということだろう。
レオも緩みそうになる頬を引き締め、主人然として応えた。
「人目につくなとは言われていただろうね。早々に脇道に入ったと思う――エリオ、彼らが通ったルートって、推測できる?」
エリオは少し考え、
「横幅を考えると、入れる通路は限られますから……」
おや、この言いぶり。推測できなくもなさそう――?
カルミネも熱い視線をレオに注いでいる。どうやら同じ考えのようだ。
「折角だ、エリオ。ミディーカ宮からスタートしよう」
「承知しました」
ゴンドラがミディーカ宮の前まで行って、綺麗に旋回する。
悪い奴らの気持ちになって、あの日通ったルートを探るゲームが始まった。
ミディーカ宮を出発。さりげなく背後を確認。調査官はもう邸内に戻ったようだ……。
悪いゴンドラ漕ぎたるレオが小声で囁く。
「でも念の為、一本目はやり過ごす」
「二本目は狭すぎる」と、悪い弟分。
ゴンドラはミディーカ宮から下って三本目の小運河に入る。
「ここからどうする?」
「船室付きは高さもあるから、あまり低い橋は潜れません。あの橋の手前の十字路で右折か左折です」
「右折すれば旦那の家の近くに出ますね」
「うちにお貴族様を監禁できる場所なんてないだろ」
更に言えば、近隣の家の間取りは大体知っているが、狭さにかけてはどこもうちと大差ない、とレオが保証する。
エリオが黙って左折する。
大通りから一歩離れると、途端にひっそりと静まり返るヴェネツィアの小運河である。
聞こえてくるのは櫂が立てる、規則的で密やかな波の音だけ。
しばらく行くと、エリオがぼそりと言った。
「この先は教会です……それか、もう一回左折して、大運河に戻るか」
「駄目か。そう簡単に分かる訳ないね」
「何食わぬ顔で戻って、大運河沿いの邸宅のどこかに入ったのでは? 漕ぎ手が変わってしまえば、ゴンドラの見た目はどれも同じですし。いや、エリオにとっては同じじゃないかもしれないけど」
カルミネがゴンドラ漕ぎに敬意を払って言い添える。
「大運河に出てすぐ上っていけば、アンマッツァ宮、パーリア宮……下っていけば、サラッキオ宮、ネスポロ宮……」
おや、知っている名前が出てきた。
「パーリア宮ってどれ?」
「あれです」
「あれか……」
レオが納得の表情で頷いた。
濃緑の波に洗われる、大聖堂のごとき荘厳なファサード。重厚な列柱と、浮彫装飾に縁どられた広いアーチ窓。由緒あるパーリアの邸宅は、トゥリパーノ宮に勝るとも劣らぬ威容を誇っている。
「補佐官殿はトゥリパーノ家とは親しいのかな」
嫌いだからという訳でもないが、もし人間の協力者がパーリアだったらと考えてみる。
「旧家同士、下々の者には分からぬ絆がおありでしょうね」
「ふーん……」
お仲間の不肖の息子がやらかしてしまい、ほとぼりが冷めるまで匿ってやることに。丁度、大嫌いな半魔が帰ってきたので、総督の耳にあることないこと吹き込んで、この半魔に罪を着せる。半魔はめでたく幽閉。不肖の息子は頃合いを見て社会復帰。狼憑きは勿論、治療済み。
え、何これ。ありそうで怖い。
つい先程パーリアを散々煽ったことを思い出し、レオはふらりとよろけながら顔を覆った。




