34.半魔が言うには2
「トゥリパーノとトゥリパーノ家のゴンドリエレは、ゴンドラごと魔界に引きずり込まれた、って噂になっているらしいんです」
「……ゴンドリエレの間で?」
「ええ」
「ふーん……」
迷信深いヴェネツィア人の中でも、ゴンドラ漕ぎは特に迷信深い。だが、埒もないと切り捨ててはいけない。あの日、トゥリパーノを迎えにいった彼の家のゴンドラは、ミディーカ宮を出た後、ひとつの目撃証言もなくぷつりと消息を絶っている。
レオは物憂い灰色の瞳をエリオに向けた。
「エリオ、ゴンドリエレ同士って、意外と皆、顔見知りだったりするの?」
エリオは短くはいと頷く。
カルミネも気安くエリオを振り返り、
「エリオは僕には素っ気ないけど、他のゴンドラとすれ違う時は、お互いに何か挨拶っぽいことしてるもんね」
元々知っている相手でなくとも、何度もすれ違ったりしているうちに、何となくどこそこのお抱えの誰々、ということが分かってくる、とエリオが訥々と説明する。
トゥリパーノ家のゴンドラは、広めの船室に高価なガラス窓を嵌め込んだ貴族仕様で、漕ぎ手は二人。ダニエレとファブリツィオ。あの日、彼らとすれ違ったゴンドラ漕ぎがただの一人もいないとなれば、彼らがすわ魔界という発想になるのも、ごく自然なことかもしれなかった。
「エリオ、彼らがどこにいるかは分からないけど、少なくとも魔界じゃない」
「……」
この沈黙。「何故そんなことが分かる」と思っていそうなエリオに、レオはしれっと答えた。
「魔界に下りて捜してきたのさ」
「旦那ァ!」
コラッ、と言いたげなカルミネに、レオは悪戯っぽく微笑んだ。
「だってそうだろ。この魔獣が好むのは、柔らかい女の喉の肉だ。獲物でも何でもない大の男とゴンドラ一艘をわざわざ魔界に引きずり込むなんて、気紛れにもやりゃしないよ」
そう言って、魔物のように美しい灰色の目で、おっとりとエリオを見上げる。
「皆に言ってやるといい。僕がそう言っていたと」
「……」
ゴンドラ漕ぎは逃げ場のない水の上を生業の場とする。同業者が突然消え、そこに魔獣騒ぎが加われば、海から引きずり込む魔物のイメージは彼らの中で鮮明な形を取っただろう。
だが、魔物の血を引くと噂の、クッキアイオの若君が明確にそれを否定するのなら。
「……ダニエレたちとは、時々、一緒に飯を」
問いに答える形でもなく、姿を消した仲間のことを、エリオが自分からぼそりと口にする。
カルミネが珍しいものでも見るように、振り返ってエリオを見た。
「そう。彼らが早く見つかるよう、全力を尽くす」
物憂く波に揺られながらレオが応える。
エリオが無言で小さく頭を下げた。
「あ……。旦那、海から見たトゥリパーノ宮ですよ」
と、カルミネは大運河沿いの邸宅の中でも、一際壮麗な白亜の建物を指した。
「へえ、あれが……」
結局、あれから何となく機会を逸して、まだ一度も行ったことがないトゥリパーノ宮。
ここんちの不肖の息子は、今どこで何をしているのだろう。これほど捜索されている中で、潜伏中なら許し難いし、何者かに拘束されているのなら、それはそれで面倒である。
「旧家?」
「旧家」
「隣は?」
「デチーリトロ家。新参者」
戯れの問いにも、打てば響くように答えが返ってくる。さすがは歩く黄金の書、とレオが感心していると、
「別に、貴族なんて興味はないですが。旦那のお役に立ちそうなことなら何でも覚えておきたくて、いろいろ詰め込んでるんです」
と、カルミネがいじらしいことを言った。
「そ、そう……」
ほら、来たよ……。
普段は小生意気なくせに、お前はどうして時々、そんな風に可愛らしさを織り交ぜてくるのか。
「あ……新しいバウタを買ってあげようか。綺麗な飾りがついてるやつ……」
「要りません」
若い愛妾に入れあげる、貴族のお坊ちゃんそのものだった。
これはお洒落で被っている訳ではないのでね? と冷静に諭されているうちに、後ろで黙々と櫂を漕いでいたエリオが、ゴンドラの舳先をついとサン・マルコの湾に入れる。
多くの舟が着いては離れる慌ただしい岸壁で、エリオは狭い隙間を器用に縫って、一番いい場所にゴンドラを停めた。
灰白の靄をまとった、薔薇色の総督宮殿が目の前にそびえ立っている。
「じゃ、エリオ。後で」
二人はぷらぷらと歩いて、調査官たちの詰所となっている一角へ向かった。
「ヴィンチ殿、おはようございます――チャオ、カルミネ」
「ジャンニ」
カルミネがとっくにどこかへ投げ捨てた、ヴィンチの旦那の設定をレオは久々に聞く。
ジャンニは気さくに寄ってくると、レオの耳元にこっそりと囁いた。
「事態が膠着し出したら、この手の会合って急に増えますよね」
「ジャンニ、聞こえてるぞ」
背後から声を掛けられ、レオとジャンニがびくりと振り返る。
ジャンニの同僚、金髪のロベルト・エズィレ調査官が呆れたような笑みを浮かべ、すぐそこに立っていた。
ロベルトはレオに恭しく首を垂れ、
「若君、おはようございます。どうぞ奥へ。サン・ポーロ地区代表補佐官はもうお見えになっています」
え?
レオが奥に目を転じると、驚いたことに、半魔嫌いのニコロ・パーリア総督補佐官の姿があった。




