33.半魔が言うには1
扉から出たか、窓から出て壁を歩いたか。大運河の上を飛んだか、リアルトの橋を渡ったか。もう何も憶えていない。
――あ、それと、お前まだジャコモのところに行ってないだろ。変に意識してないで、さっさと会ってこい。
去り際に言われ、「うん……」とぼんやり頷いたレオは、ふらふらとあばら家に帰り着いた。
上質過ぎる寝台の側板に背を預け、膝を抱える。
――お前次第だな。
笑える。
貞潔の誓いを立てた尼僧が、よりにもよって半魔の為に還俗するなど、あり得ない話だった。
無論、ヴェネツィア女子修道院の実態については、レオも多少は聞き及んでいる。
曰く、主に貴族の娘を対象とした、体のいい未婚女性預り所。
ヴェネツィアの全ての女子修道院がそうだという訳でもなかろうが、嫁入りの際に発生する多額の持参金を惜しんだ貴族たちが、幾ばくかの色をつけた寄付金と共に娘を押しつける場所とされている。
自ら望んでというより、家の為に無理やり修道院入りさせられる令嬢たちは、鳥籠から解き放たれた小鳥のごとく、実に奔放であるらしいとパリでももっぱらの噂だった。
レオも帰郷の際にはフランス男たちから随分羨ましがられたものだ。
これからは尼僧とヤり放題だな、とか何とか。
そうだったら話は早かった。いや、ジェルソミーナが奔放とかいうのではなく、家の為に嫌々修道院入りしたのなら、という意味だ。
レオは膝頭にこつん、と額を乗せた。
分かっている。
アンドレア・パツィエンツァなら、娘の幸せな結婚を望みこそすれ、持参金惜しさに修道院に押し込むようなことはしない。
だから、この暴挙は紛れもなく彼女の意思だった。
はぁ……とレオは緩慢な動きで服を脱ぎ落とし、羽根布団にくるまった。
僕の愛しい尼僧様。とっくにあなたに捧げた心を掻き乱すのは、勿論あなたの自由だけど。
――今のはなかったことにしてあげよう……。
レオの脳裏でジェルソミーノの不敵な笑みが淡く霞んで蘇った。
レオは羽根枕をぎゅうと抱きしめた。
――なかったことになんて、しないでよ。
レオにとっては一生一度の恋なのに。
§
「ん……もう明け方……?」
「明け方っていうか、朝ですね。お支度を」
ジェルソミーナのことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。レオが物憂く瞼を開くと、今日も溌溂とした仮面の助手が「おや」と言いたげな様子でレオの顔を覗き込んできた。
う……。
レオは寝返りを打ち、カルミネの視線を避けた。万が一、涙の跡でも残っていたら、かっこ悪いことこの上ない。
「……別室でお待ちしています」
カルミネは何も訊ねず、狭い寝室をさっさと出ていった。
――あばら家に別室も何も……。
レオは毒気を抜かれ、物憂く息を吐いた。
――何なんだろうなぁ、あいつって……。
胡散臭い出で立ち。颯爽とした身のこなし。
あの子と一緒にいると何故か心が落ち着く気がする。気のせいだろう。言い出したら聞かないし、しれっと無茶なことをするし、どちらかというと心が休む暇もない。
猫のように伸びをして、レオは布団から這い出した。
別室とやらで待っている助手を、あまり待たせる訳にもいかないだろう。
冷たい水で顔を洗うと、煮詰まっていた頭が冷静になってくる。
――会いにいかなくちゃ。
人の世に生きる者として、礼儀正しく服を着込みながら、いつしか心は定まっていた。
――ジェルソミーナに会いにいかなくちゃ。
どこに行けば会えるのかは、悪魔のようなあの男がちゃんと教えてくれていた。
神の家など日の光の下と同じくらい気の進まない場所だったが、そんなことを言っている場合ではなかった。
「寝坊しちゃってごめん」
「いえ。では、行きましょうか」
存外にすっきりした顔で現れたレオを見て、小さなバウタは明らかに安堵の色を見せ、先に立って扉口へ向かった。
――心配させてしまった……。
歩幅の差もあり、難なくカルミネに並んだレオが、建付けの悪い扉を押してカルミネを先に出してやる。
ひんやりとした朝の小路を、主従は黙々と歩いた。
「エリオ、お待たせ」
すぐ近くの運河で待っていたゴンドラのそばまで来ると、カルミネが弾んだ足取りでゴンドラ漕ぎに駆け寄った。どうやら旧知の仲らしい。カルミネはレオに向き直り、ゴンドラ漕ぎを紹介した。
「旦那、エリオです」
「エリオ、よろしく」
武骨そうなゴンドラ漕ぎはぎこちなく頭を下げながら、挨拶のような言葉をもごもごと呟いた。
――何となくだけど、ゴンドリエレって騒がしいか口下手か、どっちか両極端な印象があるな。どっちにしろ喧嘩は強そうだけど。
などと思いながら、先に乗り込んだレオがカルミネに手を差し伸べる。
「おっ、女の子じゃないんだから」
カルミネはそう言ったものの、主の心遣いを無下にもできず、おずおずと手を乗せた。
――どうぞ、お嬢様。
カルミネの手を取ったレオは、令嬢に接する時と寸分違わぬ物腰で、カルミネの乗船を優しく助ける。
ゴンドラが水の上で軽やかに揺れる。
妖しい美貌の若君に手を取られ、漆黒のゴンドラに乗り込む、男とも女ともつかぬ仮面姿の小さな人影。
それはいかにもヴェネツィアらしい、夢とうつつのあわいのような幻想的な光景だったが、バウタの下の柔らかな肌が、はっきりと赤く染まっていたのは、紛れもない現実だった。
――あ。しまった。微妙な年頃の男の子を、女の子のように扱ってしまった。
向かい合わせに座ったカルミネに、レオが神妙な顔で詫びた。
「ごめん。僕がそうしたくて、つい……」
「別に……いいですけど……」
「……」
無口なゴンドラ漕ぎが静かに櫂を漕ぎながら、珍しいものでも見るようにちらちらとカルミネを見ている。
二人を乗せたゴンドラが賑やかな大運河に滑り出ると、カルミネはさっと頭を振って、唐突に切り出した。
「さっき、エリオに聞いたんですが」
「うん」
レオの視界の端に映ったミディーカ宮が見る間に後ろに流れてゆく。




