32.総督宮殿の夜3
――マリーノ、笑い過ぎだろう……。
レオのいる位置からは、小刻みに震えるマリーノの肩がよく見えた。
「その間に魔獣騒ぎが収まれば、真実は自ずと明らかでございましょう」
「もし……収まらなかった場合は……」
マリーノが弱々しく食い下がる。
パーリアは顎に手を当て、しばし考えてから答えた。
「……我々には、アルジェント・クッキアイオがおりましょう」
――魔獣が僕じゃない可能性を全然考えてなかったな……⁉
レオは大人しく気配を消しつつも、怒りにふるふると身を震わせた。
「あの半魔を子供の頃からよく知っておられるとのこと。さぞや情も移っているのでしょう。お察し致します」
訳知り顔で頷くパーリアは、あの半魔が「喰ってやろうか」と言わんばかりの目で見ていることを知らない。
眉根だけは上手に寄せていると見え、マリーノは笑っていることをパーリアに微塵も気づかせてはいないようだった。
「ですが閣下。半魔など所詮は魔物。我らが共和国を悪魔の汚れた手から守るのが、そのようなものであっていいはずがございません」
「――ほう?」
マリーノの笑みが消える。
「あの半魔には早急に人間の女をあてがい、魔物の血が薄まった子を作らせましょう」
顔を上げたマリーノに、パーリアはここぞとばかりにたたみかけた。
「共和国を守るお役目は、アルジェント・クッキアイオと、魔物の血が薄まった、人間に近い子が担えばよろしい」
随分と身勝手な理屈だな……。
四分の一に薄まったとて、お前の嫌いな魔物に変わりはしないのに。
マリーノはパーリアのご高説を遮ることなく、興味深そうな表情を浮かべて聞いていた。
口から先に生まれたマリーノである。
それと気づかせずにパーリアを丸め込むことも、知らぬ間に話題をすり替えることも、彼には造作もないはずなのに、敢えてそうせず、レオに全てを聞かせている。
警戒しろ、と伝えているのだ。
お前の敵はヴェネツィアを襲う悪魔だけではない、と。
運河の堆積物よりも、更にどろどろしたものを見せつけられ、レオが机上でげんなりした。
「補佐官殿、よく分かった」
パーリアの話を一通り聞いた後、マリーノがいかにも残念そうに微笑んだ。
「だが、憶測だけであの者を幽閉することはできぬ。あの者が共和国を襲っている魔獣であるという、確たる証拠でもない限り」
「閣下」と、こちらも満面の笑みを浮かべたパーリアが応酬した。
「それを確かめる為の幽閉ですのに」
睨み合う二匹の蛇のように、剣呑な雰囲気を漂わせながら、二人はほっほっほっほっ……と笑い合った。
「警告しましたよ」
これ以上は時間の無駄だと思ったのか、パーリアは捨て台詞のような言葉を吐いて出ていった。
扉が閉まるや否やマリーノはほっと息を吐き、レオを振り返った。
「今のはニコロ・パーリア、旧家の実力者だ。順当にいけば、今頃ヴェネツィア総督になっていたのは私ではなく彼だったと思う」
「あ、そうなんだ。道理で、あちら様の方が押し出しも立派で、余程……」
レオが納得の表情で頷く。
余分なものがそぎ落とされた精悍な頬。理知を湛えた柔和な笑み。
悠然と執務室を去っていった足取りはまさに、特別な日の総督行列の主役のようだった。
「やっぱり、お前にもあっちが総督に見えるか」
マリーノとレオは肩を叩き合って、愉快そうに笑った。
「笑い過ぎだぞ、お前……」
「順当にいけばって何。マリーノ、不正でもしたの」
「まさか。担ぎ上げられたのさ。長年、政治を牛耳ってきた長老たちに、新興貴族や若い貴族たちが反旗を翻した」
よくある話だ、とマリーノは多くを語ろうとしなかった。
惚れ惚れするような憂い顔でしみじみと呟く。
「いずれなるにしても、まだ何十年も先のことだと思っていたけどな……」
「いずれなるとは思ってたんだ」
マリーノの場合、それが自惚れに聞こえないのが憎らしい。
「レオ」
「なあに」
「あのような考え方をする者は、パーリア殿だけとは限らない。用心しろ」
「分かった」
マリーノが珍しく真面目な顔でそう言うので、レオは素直に頷いた。
まったく、面倒な……とは思っている。
「ま、パーリア殿とはせいぜい仲良くすることだな」
「ええー……」
これには素直に頷けなかった。人間の女をあてがえ、などど言う相手とどうやって仲良くしろというのか。
「そんな顔するなよ。言っておくが、パーリア補佐官殿はサン・ポーロ地区の代表だぞ」
「うっそ」
六人の総督補佐官は、それぞれがヴェネツィアの六つの地区を代表している。レオの地元サン・ポーロ地区の代表が、よりにもよってニコロ・パーリアとは、神の嫌がらせとしか思えなかった。
「向こうも表面上は仲良くしてくれるから」
「ほんっと、貴族のそういうとこってさぁ……」
レオは嫌そうに身を震わせ、「じゃあね、もう行くよ」と、そそくさと扉口へ向かった。曲がりなりにも報告は済ませたし、こんなところに長居は無用だった。
「――ジェルソミーナ・パツィエンツァは修道院に入った」
糸で引かれた操り人形のように、レオがくるりと振り返った。
「カステッロのサンタ・マリア・デッレ・ヴェルジニ修道院だ。神の花嫁となった者が再び地上に降り立って、半魔の手を取ってくれるかどうかは――」
呆然と佇むレオの目の前で、美しい男が悪魔のように微笑んだ。
「お前次第だな」




