31.総督宮殿の夜2
レオはマリーノの方へずいと身を乗り出した。
「何故も何も、あの子はアンドレア様の隠し子だろう!」
「違う」
――白々しい。
「ちょっともう、そういうのいいから。違うはずがないだろう? だって、あの子の瞳の色はどう見てもジェルソ――」
「ジェルソ?」
途中ではっと言い淀んだレオの言葉を、マリーノがすかさず復唱した。
「ミーナ……の……」
「ミーナの?」
「……」
レオが頬の熱さを自覚して、じゅっと黙り込む。
「ジェルソミーナ・パツィエンツァ、か? まさかお前の口から妙齢のご令嬢の名が出てくるとは」
悪魔のような笑みを浮かべるマリーノの横で、レオがぐったりとうなだれた。
「クッキアイオ家の血統の存続は、国家にとっても最重要事項のひとつだ。お前の恋路は共和国を挙げて支援したいところだが――」
「止めて、それだけは」
レオが悲鳴のような声を上げた。そんなことをされるぐらいなら運河に身を投げた方がましだ。
マリーノがやや芝居がかった仕草で額を覆った。
「よりにもよって、ジェルソミーナ・パツィエンツァとはな……」
「彼女だと何が駄目なんだよ……」
そう言えば、兄ミディーカも妙なことを言っていた。「あんなことになるなんて、本当にお気の毒」とか何とか。
マリーノは優美な指の動きでレオを呼び寄せ、
「よく聞け。ジェルソミーナ・パツィエンツァは――」
「――失礼致します。総督閣下」
その時、執務室の扉が何の前触れもなく開いた。
扉口に立つ物々しい人影に、マリーノがきょとんと目をやる。
「総督閣下、人の話し声がしたと思ったものですから……。御身の一大事かと」
緋色の官服を着た、威風堂々たる老紳士が、当てが外れたような顔で室内を見回した。背後には彼が連れてきたと思しき衛兵が二人、いずれもマリーノしかいない執務室を前に、困惑の色を隠せない。
「独り言が大き過ぎたか。これはすまなかった」
「そうでしたか」
老紳士は柔和に微笑むと、手を振って衛兵を下がらせる。
――え、あなたは残るの?
親しげに歩み寄ってくる老紳士を、マリーノは年長者への敬愛の念を示そうとするかのように、わざわざ執務机の前に回り込んで出迎えた。
「もう夜も遅い。パーリア殿、そろそろお休みになっては」
「総督閣下こそ」
ほっほっほっほっ……と親しげに笑い合う二人を、ヴェネツィア総督閣下の執務机に尻を乗せたレオがぼんやりと眺めた。
紳士にレオが見えていない訳ではないが、瞬時に気配を消したレオは、彼にとっては机に止まっている蝿程度の存在に過ぎない。
緋色の官服を着ているということは、六人いる総督補佐官――つまりはマリーノのお目付け役の一人だろう。パーリアといえば、ヴェネツィア黎明期にさかのぼる十二の家柄のひとつだった。
「あの半魔――ですかな?」
「はて、何のことやら」
ほっほっほっほっ……と二人は和やかに笑い合う。成程、とレオが机上で目を細めた。
パーリアが衛兵を引き連れてきたのは、侵入した賊からマリーノを守る為ではなく、補佐官の立ち会いのない私的な面会を「あの半魔」としているところを押さえる為だったのだろう。三十代半ばという異例の若さで共和国の頂点に立ったマリーノである。隙あらば彼を引きずり下ろそうとする大貴族の一人や二人いたとしても不思議ではない。
――マリーノも大変だな……。
レオが珍しくマリーノに同情していると、
「閣下、あの半魔を信用してはなりませんぞ」
――えっ? 僕?
「あの半魔」がまだそこにいるとも知らず、パーリアが何やら失礼なことを言い始めた。
「……と言うと?」
マリーノが真面目くさった顔で先を促す。明らかに面白がっている。
「閣下……」
ほっ、と苦笑を浮かべたパーリアは、分からぬのかと言わんばかりだった。
「魔獣が出始めたのは、あの半魔が帰国してすぐのこと。場所は決まって、あの半魔の住処のそば」
パーリアはそこで思わせぶりに口を噤んだ。
――い、いや、ちょっと待って。
あらぬ疑いをかけられ、レオが腰を抜かさんばかりに驚いている一方で、マリーノは動じる風もなく、わざとらしいぐらいの態度でおっとりと首を傾げた。
「ただの偶然では? ああ見えて、あれはクッキアイオの血を引く由緒正しきヴェネツィアの守護者。それだけのことであの半魔を魔獣と決めつけるのは……」
「閣下、それを確かめると同時に、共和国の差し迫った問題を解決する妙案がございます」
「ほう」
「あの半魔をひとまず幽閉し、世継ぎ作りに専念させるのです」
マリーノはぐっと眉間に皺を寄せ、口元を覆った。




