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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第3章:夜に蠢くもの

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30.総督宮殿の夜1

「――で、パオロのところに行ったら、丁度、地区の自警団の皆が集まっていて」


 レオは総督の執務机に腰を落ち着け、くつろいだ様子で続ける。


「情報収集に協力してくれることになった」


「それはつまり、目ぼしい情報はまだ何も上がっていなかったということだな」


「まあ、そういうこと」


 レオは肩をすくめた。


「それも妙な話だとは思うけどね。あれだけの事件だ。普段なら絶対、誰かが何かを見聞きしているはずなのに」


「そう気を落とすな。情報が何もないというのもまた、一つの有益な情報だ」


「ふうん」


 悪魔のように美しいマリーノは、物言いもまた、人を煙に巻く悪魔のようだ。


「もし若い娘が一瞬で路地裏に引きずり込まれたのなら、事件が知れ渡った時に誰かが何かを思い出し、『そういえばあの時』と言い出すだろう。だが、夜道を歩く男と女がひょいと路地裏にしけこんだとて、誰も何も憶えてなどいない。それは単なるヴェネツィアの日常だからだ」


「ああ、成程、そういう……いや、待って。それだとサーリを路地裏に連れ込んだのは、誰が見ても人間の男に見える奴ってことになる」


「そうだな」


「でも、あの魔物はヒトと魔獣の姿を自由に行き来できるとは思わない」


「では?」


 レオは呆然と首を振った。


「この件には、人間の協力者がいる、ってことになる……」


 どこのどいつだ、そんなおぞましいことに手を貸す馬鹿は。


「ま、当たっているかどうかは分からぬがな……。今のところは憶測に憶測を重ねただけの、単なる推論だ。だが、そう考えれば辻褄が合うと思わぬか。魔獣とやらはそれほど知能のある奴でもなさそうなのに、我らが精鋭たちの追跡をかわして逃げおおせ、それどころか第二の犯行までやってのけている」


 何ら確証はないとはいえ、悪魔のように狡猾な男が導き出した推論である。レオは執務机に手をついて、真剣な表情でマリーノに向き直った。


「ジャンニたちにも言ったんだけど、ほんと警告出して。特に娼婦。馴染み客に誘われても、路地裏には絶対入るなって」


「娼婦の組合に通達を出しておく」


「ありがと……」


「礼を言われることではない。これは私の務めだから」


 マリーノは口ではそう言うものの、レオが礼を述べたことで、不愛想な獣の愛想を引き出したかのように悦に入っている。


 レオは面白くもない顔で、


「あ、それと。一応、体は人間、頭は狼、みたいな奴の目撃情報がないか聞いたんだけど」


 ――そんな奴いたら、聞かれるまでもなく噂の的だろ。


「って」


「ごもっともだな」


「でもまあ、今後も情報収集はしてくれるって」


「そうか。お前の頼みとあらば、彼らも協力は惜しまぬだろう。地域の安全もかかっているしな」


「僕の頼みっていうか、同じ地区の住民同士だし」


「そうだったな。今回の魔獣騒ぎは、どちらもお前の住む地区で起こっている」


 マリーノは人の悪い笑みを浮かべた。


「随分、歓迎されているようじゃないか」


「止してよ……」


 レオは本気で嫌そうな顔をする。


 レオの愛する地元であり、ヴェネツィアで最も活気ある商業地域、サン・ポーロ地区。


 大運河沿いにずらりと立ち並ぶ貴族の邸宅など、別枠のような気もするが、区画で区切ればミディーカ宮も確かに、サン・ポーロ地区内にあった。


「それにしても、ヴィルジリオは一体どこにいるのだろうな」


 ため息交じりの声に、おや、とレオが反応する。


「知り合いなの?」


 チチズベーオのことを親しく名で呼ぶ程度には。


「まあ、知らなくはない」


「どんな人?」


 レオは結局チチズベーオに会えずじまいだったから、彼の人となりを知らなかった。彼は悪魔と取引することを厭わぬ人物だったのだろうか。それとも、魔に付け込まれる危うさや迂闊さがあったのか。


「うーん……。軽薄で、年増好き」


「だろうね」


 訊いた僕が馬鹿だったよ、と口にするのも面倒だった。それぐらいのこと、会わずとも分かる。


「年増と言っても、カテリーナ・ミディーカみたいなのじゃないと駄目だったな。妖艶で気が強くて、体形は勿論、崩れてなくて。何と言うか、若い男の生き血をすすって若さを保っているような感じの……」


 訊いてもいないカテリーナ・ミディーカについては何故こんなに語るのか。


 レオが話を聞いているような、いないような顔でぼんやりと執務机にもたれていると、マリーノはふと思い出したように訊ねた。


「で、カルミネはどうだった?」


 ――気に入っただろ?


 言外にそんな含みをにじませているマリーノに、レオはふっと微笑んでみせた。


「メディチ家の若君かと思ったよ」


「そうか」


 マリーノがクッと肩を揺らす。


乳母日傘おんばひがさで育ったように見えたか」


「いい線いってたことは認めるよ。でも所詮、貴族のお坊ちゃんに僕らの振りなんて……」


 あ……。


 ――貴族のお姫様に、僕らの振りなんて絶対にできません。


 遠い昔、ジェルソミーナにも似たようなことを言ったっけ――。


 ふ……と切なく目を細め、物思いにふけるレオをマリーノが面白そうに眺めた。


「へえ……これは驚いた」


「違うからね? 今のはカルミネを思い出したんじゃないからね?」


 レオはマリーノが想像しているであろうことをきっぱりと否定した。このままでは本当に、レオのせいでカルミネ愛妾説が独り歩きしかねない。


「レオ……」


 マリーノがふいに、らしくもなく真剣な表情になった。


「お前には真実を伝えておく」


「なあに。改まって」


「カルミネの名は、『黄金の書(リーブロ・ドーロ)』には載っていない」


「え……」


 黄金の書(リーブロ・ドーロ)とは、「出生の書」と「婚姻の書」からなるヴェネツィア貴族名鑑である。


 レオがハッ、と笑って首を振った。


「まさか」


 あの子はどう考えても貴族だろう――。


「レオ……」


「どういうことだよ」


 マリーノは苦しげな表情を浮かべてレオから目を逸らした。


「これ以上は訊いてくれるな……」


「……」


 そんな……。


 そうかもしれない、と思っていたことが、確信に変わった瞬間だった。


 何でもありのクッキアイオ家は例外中の例外として、貴族身分には厳格な規定があり、正式の婚姻によらない子などは貴族として認められることはない。


 アンドレア・パツィエンツァと妻であるヴァレンティーナには、マルコとジェルソミーナという一男一女がいるが、彼らの下に弟はいなかった。正式な婚姻から生まれた弟は。


 レオが両手で顔を覆った。


「それは……なかなかショックだよ……」


「まあ……お前が気に病むようなことではない」


「マルコはこのことを知ってるの?」


「カルミネのことをか……? いや、絶対に知らないと思うが、何故そんなことを訊く」

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