30.総督宮殿の夜1
「――で、パオロのところに行ったら、丁度、地区の自警団の皆が集まっていて」
レオは総督の執務机に腰を落ち着け、くつろいだ様子で続ける。
「情報収集に協力してくれることになった」
「それはつまり、目ぼしい情報はまだ何も上がっていなかったということだな」
「まあ、そういうこと」
レオは肩をすくめた。
「それも妙な話だとは思うけどね。あれだけの事件だ。普段なら絶対、誰かが何かを見聞きしているはずなのに」
「そう気を落とすな。情報が何もないというのもまた、一つの有益な情報だ」
「ふうん」
悪魔のように美しいマリーノは、物言いもまた、人を煙に巻く悪魔のようだ。
「もし若い娘が一瞬で路地裏に引きずり込まれたのなら、事件が知れ渡った時に誰かが何かを思い出し、『そういえばあの時』と言い出すだろう。だが、夜道を歩く男と女がひょいと路地裏にしけこんだとて、誰も何も憶えてなどいない。それは単なるヴェネツィアの日常だからだ」
「ああ、成程、そういう……いや、待って。それだとサーリを路地裏に連れ込んだのは、誰が見ても人間の男に見える奴ってことになる」
「そうだな」
「でも、あの魔物はヒトと魔獣の姿を自由に行き来できるとは思わない」
「では?」
レオは呆然と首を振った。
「この件には、人間の協力者がいる、ってことになる……」
どこのどいつだ、そんなおぞましいことに手を貸す馬鹿は。
「ま、当たっているかどうかは分からぬがな……。今のところは憶測に憶測を重ねただけの、単なる推論だ。だが、そう考えれば辻褄が合うと思わぬか。魔獣とやらはそれほど知能のある奴でもなさそうなのに、我らが精鋭たちの追跡をかわして逃げおおせ、それどころか第二の犯行までやってのけている」
何ら確証はないとはいえ、悪魔のように狡猾な男が導き出した推論である。レオは執務机に手をついて、真剣な表情でマリーノに向き直った。
「ジャンニたちにも言ったんだけど、ほんと警告出して。特に娼婦。馴染み客に誘われても、路地裏には絶対入るなって」
「娼婦の組合に通達を出しておく」
「ありがと……」
「礼を言われることではない。これは私の務めだから」
マリーノは口ではそう言うものの、レオが礼を述べたことで、不愛想な獣の愛想を引き出したかのように悦に入っている。
レオは面白くもない顔で、
「あ、それと。一応、体は人間、頭は狼、みたいな奴の目撃情報がないか聞いたんだけど」
――そんな奴いたら、聞かれるまでもなく噂の的だろ。
「って」
「ごもっともだな」
「でもまあ、今後も情報収集はしてくれるって」
「そうか。お前の頼みとあらば、彼らも協力は惜しまぬだろう。地域の安全もかかっているしな」
「僕の頼みっていうか、同じ地区の住民同士だし」
「そうだったな。今回の魔獣騒ぎは、どちらもお前の住む地区で起こっている」
マリーノは人の悪い笑みを浮かべた。
「随分、歓迎されているようじゃないか」
「止してよ……」
レオは本気で嫌そうな顔をする。
レオの愛する地元であり、ヴェネツィアで最も活気ある商業地域、サン・ポーロ地区。
大運河沿いにずらりと立ち並ぶ貴族の邸宅など、別枠のような気もするが、区画で区切ればミディーカ宮も確かに、サン・ポーロ地区内にあった。
「それにしても、ヴィルジリオは一体どこにいるのだろうな」
ため息交じりの声に、おや、とレオが反応する。
「知り合いなの?」
チチズベーオのことを親しく名で呼ぶ程度には。
「まあ、知らなくはない」
「どんな人?」
レオは結局チチズベーオに会えずじまいだったから、彼の人となりを知らなかった。彼は悪魔と取引することを厭わぬ人物だったのだろうか。それとも、魔に付け込まれる危うさや迂闊さがあったのか。
「うーん……。軽薄で、年増好き」
「だろうね」
訊いた僕が馬鹿だったよ、と口にするのも面倒だった。それぐらいのこと、会わずとも分かる。
「年増と言っても、カテリーナ・ミディーカみたいなのじゃないと駄目だったな。妖艶で気が強くて、体形は勿論、崩れてなくて。何と言うか、若い男の生き血をすすって若さを保っているような感じの……」
訊いてもいないカテリーナ・ミディーカについては何故こんなに語るのか。
レオが話を聞いているような、いないような顔でぼんやりと執務机にもたれていると、マリーノはふと思い出したように訊ねた。
「で、カルミネはどうだった?」
――気に入っただろ?
言外にそんな含みをにじませているマリーノに、レオはふっと微笑んでみせた。
「メディチ家の若君かと思ったよ」
「そうか」
マリーノがクッと肩を揺らす。
「乳母日傘で育ったように見えたか」
「いい線いってたことは認めるよ。でも所詮、貴族のお坊ちゃんに僕らの振りなんて……」
あ……。
――貴族のお姫様に、僕らの振りなんて絶対にできません。
遠い昔、ジェルソミーナにも似たようなことを言ったっけ――。
ふ……と切なく目を細め、物思いにふけるレオをマリーノが面白そうに眺めた。
「へえ……これは驚いた」
「違うからね? 今のはカルミネを思い出したんじゃないからね?」
レオはマリーノが想像しているであろうことをきっぱりと否定した。このままでは本当に、レオのせいでカルミネ愛妾説が独り歩きしかねない。
「レオ……」
マリーノがふいに、らしくもなく真剣な表情になった。
「お前には真実を伝えておく」
「なあに。改まって」
「カルミネの名は、『黄金の書』には載っていない」
「え……」
黄金の書とは、「出生の書」と「婚姻の書」からなるヴェネツィア貴族名鑑である。
レオがハッ、と笑って首を振った。
「まさか」
あの子はどう考えても貴族だろう――。
「レオ……」
「どういうことだよ」
マリーノは苦しげな表情を浮かべてレオから目を逸らした。
「これ以上は訊いてくれるな……」
「……」
そんな……。
そうかもしれない、と思っていたことが、確信に変わった瞬間だった。
何でもありのクッキアイオ家は例外中の例外として、貴族身分には厳格な規定があり、正式の婚姻によらない子などは貴族として認められることはない。
アンドレア・パツィエンツァと妻であるヴァレンティーナには、マルコとジェルソミーナという一男一女がいるが、彼らの下に弟はいなかった。正式な婚姻から生まれた弟は。
レオが両手で顔を覆った。
「それは……なかなかショックだよ……」
「まあ……お前が気に病むようなことではない」
「マルコはこのことを知ってるの?」
「カルミネのことをか……? いや、絶対に知らないと思うが、何故そんなことを訊く」




