29.二人目の犠牲者2
「旦那――」
明け方、レオを迎えにきたカルミネの顔は、上半分を覆うバウタと同じくらい白く強張っていた。
「ここから、すぐ目と鼻の先です」
俄かには信じられず、レオは呆然とカルミネを見上げた。
「ご案内します。お支度を」
カルミネに連れられて向かったのは、物心ついた頃からその周辺を何千何万回通ったか分からない、リアルト左岸の裏路地だった。
どうして。この距離で気づかないなんて――。
レオにしてみれば、寝首を掻かれたも同然だった。
「……通して」
フロックコートの裾を翻し、封鎖された現場に押し入る。彼が誰なのか、その場にいる者全員が知っており、誰もレオを止められない。中にいたジャンニが振り返り、険しい顔で近寄ってくるレオに遺体の身元を告げた。
「被害者はデルフィーナ・サーリ、十八歳。娼婦です」
娘の目元はいかにもヴェネツィア女らしく、黒絹の仮面で覆われていた。
だからこそ、なお一層、その死は作りものめいて見えた。
非日常を演出する仮面と、あり得ないほど大きく欠落した首回り。
レオの背後で誰かが「悪夢だ」と呟いた。その通り、目の前の光景は繰り返される悪い夢のよう。
カテリーナ・ミディーカとは年齢も容姿も身分も違う、それなのにこの既視感は。
レオの物憂い灰色の瞳が、大きく喰い破られた喉をなぞった。
一瞬のことだっただろうか。
例によって娘の体を覆うマントには、首回り以外、小さな裂け目ひとつ見当たらなかった。服の下の白い体は恐らく無傷で、どこも欠けてはいないだろう。カテリーナ・ミディーカがそうであったように。
「この近くの娼館勤めで、襲われたのは夜中のようです。どこぞのお屋敷に呼ばれた帰りだったようで。明け方、偶然ここを通りかかった市民が発見しました」
「うん……」
ジャンニの説明を聞きながら、レオは彼女の体に顔を近づけ、スンと匂いを嗅いだ。
あれ……。
レオは怪訝な顔をして、更に身を屈める。
レオの隣に屈んでいたカルミネが、恐る恐るレオの顔を覗き込んだ。
「旦那、何故そんなに何度も若い娘の匂いを嗅ぐんです……?」
「違う、誤解だ」
レオはむっつりと身を起こした。確かにミディーカの奥方の時は一回しか嗅がなかったが、今回は若い娘だから何度も嗅いだのではない。
「匂いがしないから……」
甘い腐敗臭に顔をしかめながら、カルミネとジャンニが物問いたげにレオを見つめた。
「ミディーカの奥方の遺体からは、もっと濃厚な魔の匂いがした」
「えっ」
カルミネどころか、その場にいた他の調査官たちまでもがレオを振り返った。
「ヴィンチ殿、そんなこと分かるんですか」
「旦那ァ、何故そんな大事なことを今まで黙っていたんです」
逃げ場のない狭い裏路地で、調査官たちの心情をも代弁しているかのようにジャンニとカルミネがレオにぐいぐいと詰め寄る。
「ご、ごめん。あの時は、ちょっと、どっちかよく分からなくて」
「とおっしゃいますと?」
「魔の匂いと、人間の狂気の匂いはよく似てる」
「……」
はっきりと別のものであるはずの、魔と人間の境界が曖昧に溶けて混ざり合う。
美しい若君の言葉が、水に垂らしたインクのように調査官たちの心に沁み込み、調査官たちが我知らず身を震わせた。
レオの助手を以て任じるカルミネだけは動じる風もなく、キラリと目を輝かせた。
「旦那。もしかして、その匂いさえあれば魔物の本体を辿れるんですかィ?」
「お前、僕を猟犬か何かだと……」
本人たちに自覚はないが、犬も食わない何かが始まりそうな気配に、「まあまあ」とジャンニが割って入る。ジャンニは苦笑しながら話題を戻した。
「匂いはもう飛んでしまったんでしょう。ミディ-カの奥方の時と違って路上ですし、発見までに時間がかかってますから」
「うん……ん?」
ジャンニの言葉に相槌を打ちかけ、レオが訝しげに眉を寄せた。
――襲われたのは夜中のようです。明け方、偶然ここを通りかかった市民が発見しました。
「それは、彼女が襲われた時に、誰も気づかなかったということ?」
そんなことがあるだろうか。この辺りは娼婦とはいえ若い娘が、夜の一人歩きを躊躇しない程度には人通りの多い界隈である。
ジャンニは苦い顔で首を横に振った。
「サーリがここに入るところを目撃した者がいないか、聞いて回ってはいるんですが……」
表の大通りと裏道は、ほんの一歩で行き来できる。娘が今横たわっている場所は、表通りの喧騒など忘れたような、ひっそりと侘しい裏路地だった。一歩ここに引き込まれてしまえば、漆黒の闇が哀れな犠牲者の姿と言わず悲鳴と言わず、すべて呑み込んでしまっただろう。
だが、娘の方はそうだったとしても、魔獣は――?
「ジャンニ、魔獣の咆哮は?」
ジャンニは今度も首を横に振った。
「昨夜、そういうものを聞いたという報告も、市民からの情報提供もありません」
ミディーカの奥方の惨劇は、既にヴェネツィア中に知れ渡っている。
それでなくとも、辺り一面に轟くほどの咆哮が、すぐそばの裏路地から聞こえたとしたら、市民が通報のひとつもしないはずがない。
つまり――魔獣は吼えなかった。
カルミネがフム……と小さな顎に手をやった。
「何で吼えなかったんでしょうね」
「そこも大いに気になるところだけど」
調査官たちが互いに身をかわしながら、窮屈そうに行き交う裏路地をレオは険しい顔で見渡す。
「ここで襲ったのなら、体の大きさもそう人間離れしてなさそうだ。せいぜい、体格のいいゴンドラ漕ぎってところ。噛み痕から推測される顎の大きさとそぐわない」
「顔だけ大きいんですかね……?」
「それはそれで問題だ。殺傷能力が高い上に、小回りも利くってことになる」
レオは立ち上がり、物憂い灰色の瞳を調査官たちに向けた。
「もう一度、ヴェネツィア全土に警告を。知能はそう高くないが、動きは敏捷。引きずり込まれるのは一瞬だ」
「承知しました」
レオはふっと悪戯っぽく笑った。
「――匂いを辿れなくて悪い。トゥリパーノを見つけたら知らせてくれ」
仮面の助手を促し、さっさと表通りに向かう。
「旦那、どちらへ」
「パオロの薬屋」
無論、旧交を温める為ではない。
「近隣住民への聞き込みですか」
「うん」
下町には下町のつながりがあり、そこでしか得られない情報もある。場合によっては、所詮お上の手先でしかない調査官たちが収集するよりも、有益な情報が得られるかもしれなかった。




