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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第2章:あまりにも美しい助手

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27.忠義者3

 互いに殺気を漲らせたカルミネとオラフェブレが、粛々と近場の広場カンポへ向かう。


 野次馬たちが厳粛な面持ちで後に続いた。


 ――パオロ。


 レオがパオロに目配せし、パオロが頷いた。


「あっ」


 次の瞬間、レオがカルミネの剣を叩き落とし、小さな体をひょいと担ぎ上げた。


「旦那、何を……!」


 ふっ。可愛いけどやっぱり男の子なんだ……。


 別に何かを期待した訳でもなかったが、担ぎ上げた体は薄っぺらくて柔らかいところがひとつもない、紛う方なき少年の体だった。


「逃げるか! 卑怯者!」


 怒気を孕んだオラフェブレの声が、野次馬の群れの向こうから聞こえてくる。レオは流れるようにカルミネを下ろし、昼なお暗い裏通りに滑り込んだ。


「はぐれるなよ」


 そう言い捨て、レオは記憶と壁の感覚を頼りに濡れた小路を躊躇なく走り出した。


 パオロ、頼んだぞ――。


 パオロが無邪気を装い、のらりくらりと道を塞いでくれている間に、カルミネを連れて安全な場所まで逃げなくてはならない。


 オラフェブレが剣を振るって強引に突破したり、パオロを傷つけたりする心配はなかった。ヴェネツィアの法は人民の模範たるべき貴族の方に、より厳格に適用される。ヨーロッパの色街と揶揄されながら、他国においては建前だけの高貴なる者の義務ノブレス・オブリージュがこの街では生きていた。丸腰の庶民に剣を持った貴族が傷を負わせたとなれば、オラフェブレはタダでは済まない。


 レオの後ろを走っていたカルミネが、突然、女のような悲鳴を上げた。


「ヒッ! 僕、何か踏んだ! 旦那ァ……僕、何か踏みました!」


「馬鹿、静かにしろ」


 何が賤しい身分だ。このお坊ちゃんめ。


「――待てい!」


「うわ、来た」


 早いな……。


 パオロが早々に突破されたようだった。


「旦那」


「大丈夫」


 とは言うものの、猫に追われる二匹の鼠が袋小路に追い詰められていくように、二人が進む小路の幅は徐々に狭くなっていく。


「旦那、ほんとに大丈夫なんですか。道が段々狭くなってきています」


「大丈夫だってば。この辺は僕の庭みたいなもん――」


 ――あ。


 言い終わる前にレオは詰まった。


「すみません、今何と? 僕の? 何ですって?」


「あの頃より体が大きくなってて……」


 レオは細い隙間に挟まったまま、カルミネの視線を避けるように首を捩じった。


 ここから抜ければ、大人はもう追ってこられない。そう思っていたのだが、五年の歳月を経て、肝心の自分が大人の大きさになっていたことを失念していた。


「それはそれは」


 カルミネが力任せにレオをぐいぐい押す。


「いたた」


「無理か」


 押しても駄目ならとばかり、今度は肩をつかんで容赦なく引っ張る。


「いたた。止せ。痛い」


「もうちょっとで抜けそうなんですけど」


「レオナルド……ヴィンチィ……!」


 オラフェブレの怒声と足音が、濡れた小路を這うように、じわじわと迫ってきていた。


「……しつこいな」


「そういう奴だ」


 今追いつかれたらお終いだった。


 カルミネが迷いのない目でさっと後ろに下がり、


「――失礼」


「ああっ!」


 何を踏んだか分からない足で、ぽんとレオを蹴り出す。


 スポンと綺麗に抜けたレオの後ろから、カルミネが隙間をひょいと通り抜ける。後は一目散だった。


「――はぁっ」


 薄暗い路地から人気のない小広場に飛び出し、レオはカルミネと二人、荒い息をしながら地面に倒れ込んだ。


「ここまでは……追ってこられないだろう……」


「はい……」


 何が悲しくて帰郷早々路地裏を逃げ回り、今もこうして地べたに背中を預けているのか分からないが、この感覚すら懐かしいような気がしていた。


 本当に、帰ってきたんだ……。


 迷路のようなヴェネツィアの街。かつて世界のすべてだった場所。


 レオは寝転がったままカルミネを物憂く睨んだ。


「まったくもう。無茶なことを」


「絶対に僕が勝ってましたね」


「そうかもしれないけど、お前が勝ったら勝ったで、またややこしいことになるだろ」


 カルミネは毒気を抜かれたように濃緑の瞳を瞬かせた。


「フン……あなたらしい」


 ――今日初めて会っただろう。


 恋人のような顔の近さで、レオをよく知っているかのように微笑むカルミネが、どうしようもなく他の誰かと重なった。


 違う。この子はあの人じゃない……。


 どことは言わないが平べったいし、言葉遣いも珍妙である。あの人なら、あの人が化けたジェルソミーノなら、絶対にこうはならないだろう。なのに、何でそんなに似ているのか。


 レオの切ない胸の内も知らず、カルミネはすっかり気を許している様子で屈託なく訊ねた。


「旦那、あの御仁に何をやったんです? 尋常じゃない嫌われようですが」


「昔、あいつが婚約寸前だった令嬢を連れ出して、駆け落ち相手に引き渡したことが……」


 夢のようなあの夏の午後、何事にも熱を持たぬ幼い半魔は、恋に恋する令嬢の手を取り海へと走った。


 ――今の、キャピュレット家のお嬢さん?


 その直後、海を宿した濃緑の瞳に囚われるとも知らないで。


「あいつ、なんで僕が手引きしたって分かったんだろうな……」


「執念で突き止めたんでしょう。諦めきれなかったんですよ」


「まあ、そうだよね……」


 旧ヴェネツィア領クレモナ出身の裕福な新興貴族と、ヴェネツィア本島起源の由緒正しき没落貴族。互いの利益が完全に一致した理想的な縁組だった。令嬢の心が既に他の男のものでさえなければ。


「でもおかしくないか? 恨むんなら逃げた令嬢か、駆け落ち相手の男のはずだろ。なんで僕なんだよ」


 ぼやくレオのすぐ隣で、カルミネがクックッと楽しげに笑う。


 やっぱり似ている。


 耳をくすぐる笑い声。


 きらきら眩しい濃緑の瞳。


 何をするやら予測がつかないところまで、カルミネは本当に、ジェルソミーノとよく似ていた。


 だが、カルミネがあの人であるはずがなかった。


 そもそもの性別をさて置いても、彼の人はレオより二つ年上の十九歳、こんなお遊びはとっくに卒業しているお年頃で、何より彼女は庶民の恰好をしていても、朝摘みの薔薇の香るがごとく、その高貴さを隠し切れていなかった。


 それでも……。


「お前を見ていると、懐かしい誰かを思い出すよ……」


「へえ……。それは誰です?」


 そう訊ねたカルミネの瞳が、何故だかとても切なげに揺れた。


 ああ、もう……。


 もしかして、こういうところじゃないのか。貴族の助平親父共に、良からぬ思いを抱かせてしまうのは。


 レオの指がバウタをこつんと弾いた。


「さあね。お前の知らない人さ」


「何ですか。思わせぶりな」


 カルミネの口調は本気で怒っている風でもない。


「ねえ、カルミネ……」


「はい」


 レオが空を見上げてぽつりと訊ねた。


「ミディーカさんって、僕らを足止めしたと思う……?」


「あれが演技なら大したものですよ――完敗です」


 主従は地べたに寝転がったまま、あーあ……と気の抜けたようなため息を吐いた。

第2章:あまりにも美しい助手(完)

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