27.忠義者3
互いに殺気を漲らせたカルミネとオラフェブレが、粛々と近場の広場へ向かう。
野次馬たちが厳粛な面持ちで後に続いた。
――パオロ。
レオがパオロに目配せし、パオロが頷いた。
「あっ」
次の瞬間、レオがカルミネの剣を叩き落とし、小さな体をひょいと担ぎ上げた。
「旦那、何を……!」
ふっ。可愛いけどやっぱり男の子なんだ……。
別に何かを期待した訳でもなかったが、担ぎ上げた体は薄っぺらくて柔らかいところがひとつもない、紛う方なき少年の体だった。
「逃げるか! 卑怯者!」
怒気を孕んだオラフェブレの声が、野次馬の群れの向こうから聞こえてくる。レオは流れるようにカルミネを下ろし、昼なお暗い裏通りに滑り込んだ。
「はぐれるなよ」
そう言い捨て、レオは記憶と壁の感覚を頼りに濡れた小路を躊躇なく走り出した。
パオロ、頼んだぞ――。
パオロが無邪気を装い、のらりくらりと道を塞いでくれている間に、カルミネを連れて安全な場所まで逃げなくてはならない。
オラフェブレが剣を振るって強引に突破したり、パオロを傷つけたりする心配はなかった。ヴェネツィアの法は人民の模範たるべき貴族の方に、より厳格に適用される。ヨーロッパの色街と揶揄されながら、他国においては建前だけの高貴なる者の義務がこの街では生きていた。丸腰の庶民に剣を持った貴族が傷を負わせたとなれば、オラフェブレはタダでは済まない。
レオの後ろを走っていたカルミネが、突然、女のような悲鳴を上げた。
「ヒッ! 僕、何か踏んだ! 旦那ァ……僕、何か踏みました!」
「馬鹿、静かにしろ」
何が賤しい身分だ。このお坊ちゃんめ。
「――待てい!」
「うわ、来た」
早いな……。
パオロが早々に突破されたようだった。
「旦那」
「大丈夫」
とは言うものの、猫に追われる二匹の鼠が袋小路に追い詰められていくように、二人が進む小路の幅は徐々に狭くなっていく。
「旦那、ほんとに大丈夫なんですか。道が段々狭くなってきています」
「大丈夫だってば。この辺は僕の庭みたいなもん――」
――あ。
言い終わる前にレオは詰まった。
「すみません、今何と? 僕の? 何ですって?」
「あの頃より体が大きくなってて……」
レオは細い隙間に挟まったまま、カルミネの視線を避けるように首を捩じった。
ここから抜ければ、大人はもう追ってこられない。そう思っていたのだが、五年の歳月を経て、肝心の自分が大人の大きさになっていたことを失念していた。
「それはそれは」
カルミネが力任せにレオをぐいぐい押す。
「いたた」
「無理か」
押しても駄目ならとばかり、今度は肩をつかんで容赦なく引っ張る。
「いたた。止せ。痛い」
「もうちょっとで抜けそうなんですけど」
「レオナルド……ヴィンチィ……!」
オラフェブレの怒声と足音が、濡れた小路を這うように、じわじわと迫ってきていた。
「……しつこいな」
「そういう奴だ」
今追いつかれたらお終いだった。
カルミネが迷いのない目でさっと後ろに下がり、
「――失礼」
「ああっ!」
何を踏んだか分からない足で、ぽんとレオを蹴り出す。
スポンと綺麗に抜けたレオの後ろから、カルミネが隙間をひょいと通り抜ける。後は一目散だった。
「――はぁっ」
薄暗い路地から人気のない小広場に飛び出し、レオはカルミネと二人、荒い息をしながら地面に倒れ込んだ。
「ここまでは……追ってこられないだろう……」
「はい……」
何が悲しくて帰郷早々路地裏を逃げ回り、今もこうして地べたに背中を預けているのか分からないが、この感覚すら懐かしいような気がしていた。
本当に、帰ってきたんだ……。
迷路のようなヴェネツィアの街。かつて世界のすべてだった場所。
レオは寝転がったままカルミネを物憂く睨んだ。
「まったくもう。無茶なことを」
「絶対に僕が勝ってましたね」
「そうかもしれないけど、お前が勝ったら勝ったで、またややこしいことになるだろ」
カルミネは毒気を抜かれたように濃緑の瞳を瞬かせた。
「フン……あなたらしい」
――今日初めて会っただろう。
恋人のような顔の近さで、レオをよく知っているかのように微笑むカルミネが、どうしようもなく他の誰かと重なった。
違う。この子はあの人じゃない……。
どことは言わないが平べったいし、言葉遣いも珍妙である。あの人なら、あの人が化けたジェルソミーノなら、絶対にこうはならないだろう。なのに、何でそんなに似ているのか。
レオの切ない胸の内も知らず、カルミネはすっかり気を許している様子で屈託なく訊ねた。
「旦那、あの御仁に何をやったんです? 尋常じゃない嫌われようですが」
「昔、あいつが婚約寸前だった令嬢を連れ出して、駆け落ち相手に引き渡したことが……」
夢のようなあの夏の午後、何事にも熱を持たぬ幼い半魔は、恋に恋する令嬢の手を取り海へと走った。
――今の、キャピュレット家のお嬢さん?
その直後、海を宿した濃緑の瞳に囚われるとも知らないで。
「あいつ、なんで僕が手引きしたって分かったんだろうな……」
「執念で突き止めたんでしょう。諦めきれなかったんですよ」
「まあ、そうだよね……」
旧ヴェネツィア領クレモナ出身の裕福な新興貴族と、ヴェネツィア本島起源の由緒正しき没落貴族。互いの利益が完全に一致した理想的な縁組だった。令嬢の心が既に他の男のものでさえなければ。
「でもおかしくないか? 恨むんなら逃げた令嬢か、駆け落ち相手の男のはずだろ。なんで僕なんだよ」
ぼやくレオのすぐ隣で、カルミネがクックッと楽しげに笑う。
やっぱり似ている。
耳をくすぐる笑い声。
きらきら眩しい濃緑の瞳。
何をするやら予測がつかないところまで、カルミネは本当に、ジェルソミーノとよく似ていた。
だが、カルミネがあの人であるはずがなかった。
そもそもの性別をさて置いても、彼の人はレオより二つ年上の十九歳、こんなお遊びはとっくに卒業しているお年頃で、何より彼女は庶民の恰好をしていても、朝摘みの薔薇の香るがごとく、その高貴さを隠し切れていなかった。
それでも……。
「お前を見ていると、懐かしい誰かを思い出すよ……」
「へえ……。それは誰です?」
そう訊ねたカルミネの瞳が、何故だかとても切なげに揺れた。
ああ、もう……。
もしかして、こういうところじゃないのか。貴族の助平親父共に、良からぬ思いを抱かせてしまうのは。
レオの指がバウタをこつんと弾いた。
「さあね。お前の知らない人さ」
「何ですか。思わせぶりな」
カルミネの口調は本気で怒っている風でもない。
「ねえ、カルミネ……」
「はい」
レオが空を見上げてぽつりと訊ねた。
「ミディーカさんって、僕らを足止めしたと思う……?」
「あれが演技なら大したものですよ――完敗です」
主従は地べたに寝転がったまま、あーあ……と気の抜けたようなため息を吐いた。
第2章:あまりにも美しい助手(完)




