26.忠義者2
「ここだ。多分適当に何か作ってくれると思うんだけど……」
そう言いながら、レオは五年ぶりにダ・ティーノの扉を押す。
昼には少し早い時間だったが、陽気に飲み食いする大勢の客で中は既に賑わっていた。
ああ……。
五年前と何ひとつ変わらぬ喧騒に包まれ、レオの冷たい心臓がぶるりと震える。
看板娘のファウスティーナと目が合った瞬間、歌うような声を上げて向こうから駆け寄ってきた。
「レオじゃないか!」
「久し振り、ファウスティーナ……」
レオは永遠の看板娘の熱い抱擁を受けた。
「男前になっちゃって」
昔はレオの顔の位置にあった、ファウスティーナのたっぷりとした胸は、今はレオのみぞおち辺りで柔らかく弾んでいる。
「ファウスティーナも相変わらず綺麗だ」
「んま」
パリ帰りの色男は甘く囁き、看板娘をまんざらでもない顔にさせた。
「レオ? 本当に?」
「ジャコモのところのアンニュイ小僧?」
たちまち懐かしい顔がレオを囲む。あちこちから毛むくじゃらの手が伸び、レオの頭を次々と撫でる。毛並みのよい猫のような漆黒の髪をくしゃくしゃに乱され、パリ帰りの若君は、あっという間に彼らのよく知るアンニュイな子供の顔になった。
「アッハッハ、アンニュイィ~アンニュイィ~」
「やっぱりお前はその顔じゃなくっちゃ」
「この澄ましたちびすけはお前の連れかい?」
「お小姓付きでお出掛けたぁ、やるじゃねえか」
やたらと距離の近い下町の大人たちが、レオとカルミネを囲んで好き放題に言い散らかす。
「レオナルド・ヴィンチィ!」
「パオロ!」
むくつけき大人たちの波を掻き分け、駆け寄ってきた若い男とレオはわっと抱き合った。
どちらも下町育ちながら、周囲と違って荒事を好まず、何となく目と目で互いの気持ちを察し合う仲。
薬屋の倅のパオロは一等仲良しだった。
「元気だったか? お前は……ええと……大変だったか?」
「魔界には行ってないからね? ――あ、そうだ、ファウスティーナ、この子に何か……」
店内の騒ぎを聞きつけ、店主のティーノもレオの好きな焼き菓子を手に、奥からいそいそと出てくる。
「レ……」
「――レオナルド・ヴィンチだと?」
皆から少し離れた所から、冷ややかな低い声がした。
冷たく整った細面の、痩せぎすの男がゆっくりと立ち上がり、店の中が急に静まり返る。
カルミネが小声で訊ねた。
「旦那、あの男は?」
「カルロ・オラフェブレ。厄介な相手に会っちゃった」
こちらも小声で囁き返すレオは、あからさまに「マズい」という顔をしていた。
家名を聞けばそれと分かるのだろう、バウタの下の赤い唇が小さく動く。
「没落貴族……」
「そう」
うんざりと肯定するレオを、オラフェブレは取って食いそうな勢いで睨みつけていた。
高貴なる身のオラフェブレは、貴賤の別も財力も問わぬ、カルミネと同じような黒いマントを羽織っていた。腰に佩いた細身の剣が、お飾りと分かっていても剣呑である。
「……お前には借りを返さないとな。我が偉大なる一族の名にかけて」
「旦那、揉め事は困りますよ」
レオに食べさせようと持ってきた、ほんのりと甘いバイコリを手に乗せたまま、ティーノがおろおろとレオとオラフェブレを見比べる。
「旦那だと? 誰に向かって物を言っている!」
途端に激昂するオラフェブレの注意を引くように、レオは鼻にかかった物柔らかな声を張り上げた。
「――偉大なる騎士の名を継ぐオラフェブレ閣下。只今の『旦那』は我が身に向けられたもの。何とぞ誤解をお解きくださいますよう」
へりくだったレオの口上に、オラフェブレはフンと口元を歪めた。
「相変わらず小賢しい奴め。口の利き方は学んだようだが、よもやこれでお前の悪行が帳消しになるとは思……」
「――誰か剣を」
落ち着きのあるカルミネの声が、静まり返った店内に響いた。
「カルミネ……? お、お前何を」
「口の利き方を学ばなければならないのはそちらでしょう。この御方はヴェネツィアに隠れもなきクッキアイオ家のレオナルド様。無礼な言動、この僕が捨て置くことはできません」
怪しい仮面が主君を庇うように一歩前へ進み出たかと思うと、静かな怒りをこめて堂々、そう言い放った。
――ヴィンチの旦那の設定どこ行った……。
二の句も継げぬレオを置き去りに、血の気の多い男たちがわっと盛り上がった。
「いいぞ、ちび!」
「ちびくん、ついでに店のツケをこのお貴族様から取り立てておくれ!」
オラフェブレの額に青筋が走った。
「――レオナルド・ヴィンチィ……!」
大丈夫? と目で問うてくるパオロに、大丈夫じゃないとレオは目で返す。
そうこうする間にも、手から手を速やかに経由したスモールソードが呆気なくカルミネの手に渡った。大方、思いがけない見ものに出くわし、存分に楽しむつもりの貴族の持ち物であろう。
「――表へ出ろ」
「望むところだ」
オラフェブレの後について、意気揚々と出ていくカルミネの横にレオが慌てて並んだ。
「止めておけ」
「旦那、留め立ては無用です」
カルミネは涼しい顔で聞く耳を持たない。
やむなくレオはオラフェブレに向き直り、
「恐れ多くも徳高き閣下。ここはどうか僕に免じて……」
「やかましい!」
こちらも当然、聞く耳など持っていなかった。




