22.美し過ぎて1
「――帰った?」
「ええ、ご自宅のゴンドラが迎えにきたので」
トゥリパーノがいた形跡など跡形もなく片付けられた部屋で、メイドが額縁にはたきをかけながら答える。
「そう言や別に容疑者じゃなかったし、帰宅は制限してなかったな……」
「まあ死んだ愛人の家なんて、長居したい場所でもないしね」
「ウン……」
大人顔負けのカルミネの言葉に、ジャンニは頷くことしかできない。
怜悧な子だな……恰好は怪しいけど、とレオが思っていると、カルミネがチャッとレオに目を向けた。
「旦那、どうします?」
「仕方ない。行くしかないだろ」
魔獣が化けているかもしれないとまでは言わないにしても、狼憑きであるかもしれない人物を放置する訳にもいかない。
「ゴンドラをお回ししましょうか」
ジャンニが親切に申し出てくれた。
「うーん……歩いていくのとどっちが早い?」
「変わりゃしませんぜ」と横から活きのいい声が上がる。
「そうか」
レオは笑って三角帽子をポンと撫でた。
「じゃあ歩いていくよ。ありがとう、ジャンニ」
「承知しました。では、お気をつけて」
からりと笑って一礼するジャンニに別れを告げ、レオは助手と共にミディーカ宮の陸の玄関へ足を向けた。
ジャンニの同僚らしき男たちが、すれ違いざま心得たように会釈を寄越していく。
「手慣れた感じの人たちだね」
「十人委員会直属の調査官たちです。ジャンニもですが、この手の案件に駆り出されるのは精鋭です」
共和国の治安を一手に司る、類まれなる十人委員会。彼らの所掌は国家に対する陰謀から、ヴェネツィアの安全な夜をおびやかす魔物トラブルまで、実に多岐にわたる。
「後ほど、彼らから本件の詳しい報告書が届くでしょう」
「僕に?」
「それはそうですよ。僕を含め、皆あなたの手足です。何なりとお命じください」
カルミネがにこりともせず言い足した。
「協力は惜しまないから、早々に解決してほしいという共和国からの無言の圧力です」
「肝に銘じるよ」
タダより高いものはない。
「――恐れながら、レオナルド・クッキアイオ様でございましょうか」
呼び止められ、レオが振り返ると、ミディーカ家の家令であろう、テイルコートをまとった男が畏まって立っていた。
レオのよく知る家令よりも悲しげでなく、家令という役職の響きから連想される年齢よりも幾分若い。
「お人違いでは? こちらはヴィンチの旦……」
「カルミネ、ややこしくしなくていい。僕に何か」
心持ちカルミネの前に出つつ、何事もなく取り繕うレオに、ミディーカ家の家令もまた、おかしな言葉は何も聞こえなかったように恭しく一礼した。
「当家のベルトランド・ミディーカがお目にかかりたいと」
「分かった。お会いする」
さっさとトゥリパーノを追いたいところだったが、館の主人からの招待を断っては失礼に当たる。家令に先導され、今来た道を引き返しながら、レオが小声でぽつりと言った。
「いたのか……」
「そりゃいるでしょ。ここんちの主人ですよ」
カルミネも極小の声で囁き返してくる。
ふん……。
何でまた、僕に会いたいのだろう。
妻の寝室からとうの昔に追い出された男。
昨夜、世にも恐ろしい咆哮が響いたという妻の部屋に、駆け付けることをしなかった男。
「――初めまして。クッキアイオの若君」
ベルトランド・ミディーカは、中国趣味の美しい衝立の奥でレオを待っていた。
「ミディーカ様。この度のこと、心からお悔やみ申し上げます」
通された部屋は、線の細い主人の印象そのままの部屋だった。
ありきたりの調度。だが、優美で繊細。
室内を隠すように置かれた四枚折の螺鈿細工の衝立だけが、ささやかな個性のきらめきを放っている。
「どうぞ、お楽に」
「では、失礼して」
招き入れられた衝立の陰でレオは椅子を勧められ、香り高いお茶を振る舞われた。
「……気に入りましたか」
「あ、ええ。綺麗です」
衝立をしげしげと眺めているレオに、ミディーカは満足げな笑みを漏らした。
「道楽でね。こういうものを見ると、つい欲しくなってしまう」
「そうですか」
分かります、と言うようにレオも笑みを返す。
お茶に呼ばれた理由は、まださっぱり分からなかった。
無実の訴えでもしたいのだろうか。あるいは何か、内密の相談ごとでも……?
「この大きな鳥は、鳳凰という、とてもありがたい霊獣で……」
だが、ミディーカは昨夜の事件のことなど一切口にせず、衝立についてひたすら熱く語り続けるばかりだった。
レオは礼儀正しく付き合うが、彼はただ、気に入りの美しいものの話を楽しんでいるだけのようで、会話に目的や意図のようなものは見られない。
こういう話ができる相手に飢えていたのだろうか……?
妻の方は調度も衣装も、はっきりとパリの流行を追っており、夫の好みには微塵の興味も持っていなかったようだった。
「――随分、面白い子を連れていらっしゃる」
え……?
レオから少し離れたところで、調度のひとつのような顔をして立っているカルミネに、いつの間にかミディーカが好奇に満ちた視線を向けていた。
しまった――。
レオは思わず立ち上がる。
優美で繊細で、美しいものを愛でる男。
迂闊だった。
この男の狙いはカルミネだ。
――僕はあまりに綺麗なので、お貴族の殿様たちが良からぬ思いを……。




