21.惨劇の現場3
「……チチズベーオは、もう話せる状態だろうか」
奥方が血を噴き出して事切れた後も、血だまりの中、無傷で生きていた男。
レオの中では襲撃者の疑いが濃厚だが、目撃者である可能性もまだ完全には排除できない。どちらにせよ彼から話を聞く必要があるだろう。
「彼と話がしたい。ジャンニ、案内して」
「勿論ですとも――こちらへ」
ジャンニは肩越しに浅く笑うと、先に立って歩き出した。トゥリパーノを叩き起こす口実ができて、明らかに喜んでいる。あの手合いに良い感情を持っていないことは明白だった。
「ガツンとやっちゃってくださいね」
「う? うん……」
何をガツンとやればいいのか分からないが、ジャンニがいつの間にかレオに打ち解けてくれているようなのは、醸し出す雰囲気から何となく分かった。今後は変に臆することなく接してくれそうだ。
ちら、と後ろを振り返ると、レオの斜め後ろを随伴するカルミネが、レオの視線を受けて畏まった辞儀を返した。
――問題はお前だ、カルミネ。
美し過ぎる素顔とやらを素っ気ない仮面の下に隠し、近づいたかと思ったら、いつの間にか離れている。
まるであの人のようだ、なんて。
一瞬でも思った自分はどうかしている……。
――レオ、お前は帰ってきたばかりだし、まだ勝手も分からないだろう。ひとつ、優秀な助手をつけてやろう。
笑みを含んだマリーノの声が、レオの脳裏に蘇る。
女のような艶やかな美貌は五年の歳月を経てなお一層の凄みを増し、そのせいもあってか上機嫌に告げられた申し出は悪魔の囁きのようだったから、レオは断ることに何のためらいもなかった。
――要らない。
二人の「お喋り」に立ち会っていた、緋色の官服を着た老紳士たちが、レオに咎めるような視線を投げる。
二人が今いるのは、無駄に出世したマリーノの、総督宮殿の一角にある小さな謁見室である。
レオがここに引きずり込まれたのは、公人と同じ扱いになるレオが共和国への帰還を元老院に報告し、さっさと帰ろうとしていた矢先のことだった。
マリーノは彼らに向かって鷹揚に微笑んだ。
――構わない。これはただの、私的な歓談だから。
そんな訳がない。補佐官の立ち会いのない「私的な」面会はマリーノには許されていない。
否、総督には、と言うべきか。
ほんと、何の冗談なんだか……。
金糸銀糸を織り込んだ豪華な衣装と、友布の総督帽を身に着けた、堂々たるマリーノの姿を目の当たりにしてもレオにはまだ信じられなかった。
まさかレオの不在の間に、あのお気楽マリーノが、ヴェネツィアで一番偉い人になっているとは。
レオの明確な拒絶と、胡散臭いものを見る目つきを物ともせず、マリーノはにこやかに続けた。
――まあそう言わず。目端の利く聡い子なんだ。きっとお前の役に立つだろう。
――要らない。
マリーノはうんうんと頷く。
――いいから、会うだけ会ってみろよ。気に入らなかったら追い返せばいいから。
――追い返していいんだね?
言外に追い返すと告げても、マリーノは余裕の笑みだった。
――勿論。じゃ、決まりだな。明日の朝一番に挨拶に向かわせるから。
――え、早い早い。夕方でお願い。
最後は何故かレオの方からお願いする恰好になっていた。悔しいが、結局はいつもマリーノのペースである。
だが、追い返していいならそうするまでだった。マリーノの息のかかったお利口な子供など、考えただけで煩わしい。
そう思っていたのに……。
――閣下。恐れながら、ヴェネツィアが憂えております。
黒い三角帽子に黒のマント、何の感情も伝えぬ白い半バウタ。
自分をにゅっと覗き込む異形の姿を認めた時、レオは一瞬、小さめの魔物が襲いにきたのかと思った。
――ジェルソミーナ……?
レオを静かに見下ろしている、深い深い緑の瞳は、さっきまで見ていた夢と同じ。
――カルミネでございます、閣下。
「ふん……」
なかなか洒落た偽名じゃないか。
油断のならない赤毛が寄越した助手の名前が「鮮赤」だなんて。
やーな感じ。
「カルミネ」
「はい」
レオは前を向いたまま、淡々と告げた。
「お前は賢いから、僕と行動を共にすることの危険性は分かるだろう。僕もいつでもお前を守れるとは限らない。危ない目に遭いそうだったら、距離を取るなり魔法円に隠れるなりして、自分の身は自分で守れ。それができないならそばに置かない」
「朝飯前ですぜ」
「よし」
レオは再び振り返り、満足げに目を細めた。
「では、お前は僕の助手だ」
仮面の助手は主に深々と腰を折った。
「お認め頂き光栄です。他にご要望は」
レオは物憂く首を横に振る。
「お前が僕と交わす契約はそれだけだ」
契約とは、悪魔やヴェネツィア人にとって何より重いもの。
レオのそばにいる時は、カルミネは極力、自分の身は自分で守る――それが、レオの助手たるカルミネに課された、唯一の義務だとレオは言う。
「旦那、本当にお人好しですねえ……」
「どうだろうね」
この子の身の安全を考えれば、本当は追い返すべきだった。
マリーノの思惑通りになっているのも癪だった。
でも、もう遅い。
僕はお前を――気に入ってしまった。
「ヴィンチ殿、トゥリパーノ氏はこちらでございます」
お行儀のよい仮面を従えたレオの前で、ジャンニがニッと笑って扉を開けた。




