20.惨劇の現場2
「今の話だと、本人には自覚がなさそうだ……。彼の狼が発現する条件や、周期を把握しておかないと、また同じことが起こる」
オルソの昔ならいざ知らず、今や十九世紀初頭である。
色々なことが複雑になっている現代では、「お役目」を果たす者にはそれ相応の知識が求められる。
魔の領域に関することは言うに及ばず、それよりも更に不可解な人の心と体、魂に関する最新の知識まで、レオにはみっちりと叩き込まれていた。
「……帰るぞ、カルミネ」
人の業はクッキアイオ家の関知するところではない。
フロックコートを翻し、悠然と出ていこうとするレオに、ジャンニが深々と頭を下げた。
「ごっ、ご足労を……!」
「――旦那ァ、この噛み痕ですが、人間が噛んだと言うには大き過ぎやしませんかィ?」
庶民の言葉遣いがまるで似合わない、美し過ぎる凛とした声と、物理的につかまれたフロックコートがレオをその場に引き留める。
「……放してよ」
「嫌です」
レオはハァとため息を吐いた。
「倒れる時の角度と、血の噴き出す勢いによっては、こんな風に裂けることもあるんだよ」
女の細い首は、少しのことで呆気なく裂ける。
あるいは、ややこじつけだが、人間の口で噛みちぎった後、手で無理やり広げてもこうなる。
「だとしても、奥方の部屋から聞こえてきた、世にも恐ろしい咆哮の説明がつきませんや」
「狼憑きになっている時の人間は普通じゃない。そりゃ獣のような吠え声も出すさ」
「でも」とカルミネはなかなか引かなかった。
「警邏中の夜の紳士もその声を聞いているんです」
「え……」
夜の紳士――共和国の大切な市民と、外国人滞在客の夜を見回る夜警のことを、眠らぬ都はこんな雅やかな名前で呼ぶ。
カルミネはレオを捕らえたまま、ジャンニに目配せした。憑かれたようにぼんやりとしていたジャンニがはっと我に返って言う。
「辺り一面に轟くような、恐ろしい唸り声だったそうです」
「何だって」
「お伝えする順番が前後してすみません」
カルミネは「何か問題でも?」と言わんばかりに涼しげに詫びた。
「旦那、夜の紳士は職務上、夜中に喚いたり吼えたりする人間の声には慣れています。その彼らが只事ではないと判断したのなら……」
確かに只事ではない。
ひび割れひとつない硝子窓と、重厚な扉に閉ざされた寝室から、辺り一面に轟くほどの咆哮が漏れたというのなら。
「それに、ねぇ、旦那」と、カルミネはレオから手を離しながら、ぽつりと言った。
「もしトゥリパーノが狼憑きだとしたら、奥方の体には、何故こんなに傷がないんです?」
――何故こんなに傷がない?
だからこそ、魔の仕業ではないとレオは判断したのだが。
魔物が蹂躙したのなら、こんなに綺麗なままであるはずがないのだから。
「旦那ァ、顎の力は魔物と比ぶるべくもありませんが、狼憑きになった人間だって、やることはそう魔物と変わりゃしませんや。自分を狼だと思い込んでる人間が、喉だけ喰い破って終わりだなんて、そんなことがあるでしょうか。もし僕がそうなったらきっと、血の匂いに興奮して、柔らかい胸やら腹やら喰い破って、こんな綺麗なままにはしておかない」
カルミネは随分物騒なことをさらりと言って、レオを自分の身の丈まで屈ませた。
「旦那は今、それを確認したんでしょう?」
仮面の下の、剥き出しの唇がやけに赤くて、レオの喉が知らずこくりと上下した。
カルミネは少し鼻白んだ。
「……違うんですか」
「違わない」
女性の部屋着を躊躇なくめくった意図を確認されているのだと気づき、レオは急いで否定した。何故かは分からないが、この子にだけは変な誤解をされたくない自分がいる。
「つまり、奥方を襲ったのが魔物なのか人間なのか、今時点では判断できない。今分かっていることは、コイツが奥方の喉笛を喰い破って、何故かそれで終わりにしたってことだけです」
カルミネの言う通りだった。
「……すまない。結論を急いだ」
「いえ、僕も先入観に囚われていました。ヴェネツィアという魔に慣れた土地柄と、トゥリパーノ本人の怯えようから、早々に彼の仕業である可能性を除外してしまった」
こんな子供に慰められちゃった……。
カルミネはそう言ってくれるが、ヒトの声帯では出せぬほどの咆哮だったというのなら、それはもう魔の領域である可能性が高い。
カルミネの仮面を奪って自分の顔を覆いたくなっているレオに、そんなこととは露知らぬカルミネが無防備に顔を近づけてきた。
「それより――」
仮面の下でカルミネが随分酸っぱい顔をしているのが分かった。
「旦那ァ、気をつけてくださいよ。あなたがご自分をどう思おうと、あなたはやっぱり『十三番目』様なんだ。さっきの態度はちょっとばかし、まずかったですよ」
「う、うん。ごめん……」
勢いに押されてつい謝ると、カルミネが更にキッと目を吊り上げた。
「お分かりになっていないようだから、ちゃんと説明しますね。あなたは先程、トゥリパーノが狼憑きだと結論付けるに至った理由を僕らにはお話しにならなかった。ああやって結論だけを聞かされれば、大多数のヴェネツィア人は、あなたが『十三番目』様に備わった、何か特別な力を使って、真実を解き明かしたのだと思ってしまう」
ちら、とカルミネに見られたジャンニが、ばつの悪そうな表情を浮かべる。
あ、そうなのか……。
そう、とカルミネは頷いて、冷静に告げた。
「ヴェネツィア人は皆、十三番目様はただの人間じゃないと思っているということを、お心に刻みつけておいてください」
「う、う……」
切ない――。
ジャンニが見かねた様子で口を挟んだ。
「カルミネ、言い過ぎだろう……。お可哀相じゃないか」
「よく言うよ。大体、こんな話になったのはさぁ……」
「分かった、刻みつけるから」
切ないが、そう言うしかなかった。そもそも「ただの人間じゃない」という部分はあながち間違いではない。




