19.惨劇の現場1
「亡くなったのはカテリーナ・ミディーカ。この家の奥方です」
大きく開かれた扉の向こうは、一見して淑女の私室と分かる設えの部屋だった。
柔らかな曲線を描いた寝椅子。優美なドレッシングテーブル。
細長い窓から差し込む朝の光の中、繊細な飾り硝子を垂らした枝付き燭台や、金色に輝く葉飾りに縁取られた置き時計が、前夜の惨劇も知らず、ただ静かに、あるべき位置に納まっている。
まだほんのりと温もりを伝える暖炉の前には、脱ぎ捨てられたシルクタフタのラウンドガウン。
暖炉の上には本人と思しき女神のメダイヨン。
そして、血だまりの中には死してなお美しい、カテリーナ・ミディーカ。
首回りが大きく欠けている以外、彼女の体にこれといった欠損や裂傷はなかった。目に見える部分には。
ミディーカの奥方は薄い部屋着を肩掛けに羽織っており、何の偶然か、それが豊満な肢体を巧妙に覆い隠していた。
「四十を超えていますが、とてもそうは見えないと評判だったようで……。信奉者も多かったとか」
レオはジャンニの説明に頷き、貴婦人の遺体に身を屈める。
「部屋の中のものは何かいじった?」
「寝台の垂布を上げました」
ジャンニの言葉通り、豪奢な刺繍が施された垂布が紐で留められ、中の様子がすっかり見えるようになっている。ぽっかりと開いた空間の下で、夜具は随分と乱れていた。
「魔獣が潜んでいるかもしれなかったので……」
「うん」
妥当な判断だった。魔獣の来襲があったとされる部屋で、馬ぐらいなら一頭や二頭、余裕で潜める大きさの寝台が、垂布で覆われたままというのはいただけない。
レオは床に目を戻して独り言ちた。
「これは、魔獣の足跡か……?」
四つ足を持つ何かが這いずったような跡が、血だまりの端から扉へ向かってうねりながら伸びている。
「いえ、それは……」
途中で不自然に途切れたそれを見ながら、ジャンニが口ごもった。
「奥方の、チチズベーオの……」
「え?」
レオがきょとんとジャンニを見上げる。
チチズベーオ。またの名を奉仕する騎士。
一時期、それを持つことが淑女の嗜みとまで言われた、夫公認の愛人である。
「昨夜、奥方は一人じゃなかったの?」
「ええ。チチズベーオのヴィルジリオ・トゥリパーノが」
「……」
扉へと這いずっていく血の跡は、断ち切られたように途中で終わっている。
「……彼は喰われた?」
「いえ、別室で介抱されています」
「――喰われなかったの?」
「無傷でした」
ジャンニがきりっとした顔で首を横に振った。
ふん……。
レオと一緒に屈んでいたカルミネが冷静に訊ねた。
「無傷って、ジャンニ。そんなことある?」
「さあね。運が良かったのか」
ジャンニは軽く肩をすくめた。
「まだトゥリパーノ本人からは話が訊けてないんだが、ミディーカ家の使用人たちによると……」
事が起こったのは、もうとっくに日付も変わり、宵っ張りのヴェネツィアっ子もそろそろ床に就こうかという頃だった。
奥方の部屋から血も凍るような恐ろしい咆哮が聞こえ、家令を始めとする使用人たちは、取るものも取り敢えず奥方の部屋の前まで駆けつけた。
控えめなノックが何度か繰り返されたが、室内から応答はない。
使用人一同の無言の圧力に押され、意を決した家令が「失礼します」と扉を開けて数歩足を踏み入れたところで、彼は血だまりの中から這い寄ってきた全裸の男にしがみつかれた。
「へぇ……。血まみれで全裸の男に……」
「普通に嫌だったろうな」
正体もなく泣き叫ぶその男は、奥方のチチズベーオ、ヴィルジリオ・トゥリパーノ。使用人たちは当然、彼の顔を見知っていた。
家令の指示により、室内はそのままの状態で保存される一方、トゥリパーノは湯につけた布で体を拭かれ、その場でお召し替えの世話を受ける。
「ああ、それで血の跡が途中で途切れたんだ」
「うん。よく考えたら、いかにもあそこで丸呑みされましたって感じだな、あれな」
その後、トゥリパーノは自分の足で歩いて別室に移動。念の為呼ばれた医者の診察を受け、体は無傷であることが確認された――ここまでが使用人たちの供述である。
ジャンニはフンと笑った。
「随分ショックを受けているようだから、今はお休みになってるんだと」
「ふーん」
ジャンニの説明と、ちょくちょく入るカルミネの合いの手を聞きながら、レオは奥方の遺体に顔を寄せて匂いを嗅いだ。
重く甘ったるい死臭の奥に、濃密な魔の匂いがする。
あ、どうだろう……。
魔の匂いと人間の狂気の匂いはよく似ている。
レオは奥方の部屋着をぺろりとめくった。
――ふーん。どうやら僕の管轄外のようだ……。
牙や爪痕ひとつない、綺麗な体。もしこれが本当に魔獣の仕業なら、喉元だけを喰い破って終わりにするなど、随分控えめ且つ器用な個体である。
寝台の夜具以外、何ひとつ乱れていない室内には、外から無理やり入った形跡もなく、また、いかにも魔物を召還したような、魔法円やその手の術具も見当たらない。加えて、ミディーカの奥方が肩掛けにしている薄い部屋着は少しもはだけていなかった。喉を喰い破られるその瞬間まで、彼女はこれから何が起こるか予想だにせず、くつろいでいたのではあるまいか――とても、親密な相手と。
レオがすっと立ち上がる。
「魔獣じゃない。犯人はトゥリパーノだ」
――狼憑き。一種の、精神の病。




