18.あまりにも美しい助手2
「魔獣が貴婦人の喉を食い破ったそうです」
白い息を吐きながら、細長い筋を並んで歩く道すがら、美し過ぎる助手の口から穏やかならぬ言葉が飛び出した。
「魔獣、ねえ……。見た目とか大きさは?」
カルミネが首を振る。
「僕も、詳しいことは何も」
レオ同様、寝床から突然呼び出された身とのことで、
「僕が言われたのは、とにかく、旦那を現場にお連れしろ、と」
「ふーん……」
ため息交じりに明かされた、指示とも言えぬ指示が現場の混乱を物語っていた。
「魔獣はまだ近くにいるのかい」
「いないと思いますよ。もしいたら、旦那のご実家の方に使者が行っているでしょう」
「うん。そうだね……」
確かにそんな非常事態なら、呼び出されるのは間違いなく信頼と実績のあるアルジェント・クッキアイオである。
「まあ一応、ご実家の方にも一報は行っていると思いますけどね。ただ、本件についてはマリーノ様のご指示で、若君に対処して頂くことになっています」
「ふん……。マリーノめ」
――おっ。丁度うまい具合にレオが帰ってきてるぞ。レオに振るか。
そんな感じで決めたに違いない。
「ご不満ですか」
「いや、その方がいい。おじい様ももうお歳だし」
カルミネが仮面の下でふっと口元をほころばせた。
「ご当主様の方では、ひ孫様の顔を見るまでは、お役目はご自身が務めると言い張っておられたようですよ」
「え。何その話、初耳」
そんな気の遣われ方をしていたとは。
どういうことだ……昨日、挨拶に行った時には、そんなこと一言も言ってなかったのに。
レオは心持ち顔を赤くして、ごにょごにょ言った。
「もう……。そんなの、まだ全然……」
「旦那?」
「……」
レオの脳裏に、すべての重責を一身に担う、アトラスのごとき祖父の姿が思い浮かぶ。
ちゃんとひ孫が生まれるまでは、孫に万一のことがあってはいけない――祖父はそう思ったのだろう。
一緒に過ごした時間は短いが、あの人らしいと思った。
――レオナルド。
思わず身がすくむような低い声。
シルヴィオに連れていかれ、初めて祖父と会った時、祖父はまだ体中に包帯が巻かれている状態だった。
何が「ピンピンしてる」だよ、と内心シルヴィオに突っ込んだことを憶えている。
けれど、鋭い眼光も、泰然とした物腰も、信じがたいほどの威圧感に満ちていて。
例えるならば、アルジェント・クッキアイオは魔物の王のような人だった。
――抱きしめてもよいか。
そんなことを訊かれたのは生まれて初めてだった。
初対面の遠慮を見せつつ、おずおずと祖父の腕の中に潜り込むと、消毒薬と血の匂いがした。
緊張しているのか、魔物の本能からくる怯えなのか、レオが小さく震えていると、祖父は明らかに慣れていない手つきでレオの髪を撫でた。
――フランチェスコにとって、私は厳しいだけの父だったと思う。
――はあ。
唐突に何をと思った。だからその人のことは知らない。
信じ難いが、交わした言葉はそれだけだった。
頑張ってきなさい、とも言われなかった。
――まあ、あれはあれで、おじい様なりに愛を伝えてくれようとしていたんだろうな……。
分かりにくいことこの上ないが。
シルヴィオに言われ、パリからはおじい様に宛てて、割と頻繁に手紙を書いた。せいぜいが簡単な近況報告だったが、少しでも間が空くと「おじい様はレオナルド様からのお手紙を大変楽しみにしておられます」とシルヴィオからやんわり催促がきた。
祖父から返信がきたことは一度もない。
「指名の権限はマリーノにあるんだろ。今後はお役目は全部僕に回すように言って」
「承知しました」
祖父が一人で対処してきた年月は、あまりにも長い。
レオは半ば、独り言のように呟いた。
「その為には、まずはこの魔獣とやらにうまく対処して、共和国とおじい様に僕を認めさせなきゃいけないんだろうね……」
「旦那ァ……!」
助手がまるでレオのファンであるかのように、黄色い声を上げた。
え、ちょっと、何。
可愛いんだけど……。
きらきら輝く濃緑の瞳。庶民の子らしい溌溂とした態度。
この瞳の色は、珍しくもないのかな……。
レオにとっては胸を騒めかせる特別な色である。
「ねえ、君――」
「あ、旦那。ここです」
大運河に面する瀟洒な館をカルミネが指差した。館の陸の玄関の前を、赤と青の官服を着た兵士たちが守っている。
「ミディーカ家。超新興貴族」
カルミネはレオに素早く囁くと、「十三番目様をお連れした」と見張りの兵に告げる。
さっと道が開き、仮面を被った黒尽くめの怪しい少年と、どこの馬の骨とも知れぬ彼の連れはあっさりと中に通された。
中ではカルミネから仮面だけを取ったような黒一色の男たちが、使用人に話しかけたり、何かを書きつけたりと忙しそうに立ち働いていた。カルミネはすぐに見知った顔を見つけたようで、一人の男の許に駆け寄っていく。カルミネは彼の腕を取り、「ジャンニ、早く」と元気よく引っ張ってきた。
カルミネに連れられるがままやってきたのは、黒髪黒目の、人当たりのよさそうな青年だった。
「旦那、調査官のジャンニです。ジャンニ、こちらはヴィンチの旦那――十三番目様の仮のお姿だ」
最後は「分かってるな?」と言いたげに、声を潜めるのを忘れなかった。
おお、これは、と恐縮するジャンニの前で、レオもああ、とこめかみを押さえる。
違うんだよ、そんなお忍びごっこがしたいんじゃなくて……。
「仮面くん――」
「カルミネです」
ジャンニがきりっとした顔で二人を階段室に促す。
「ヴィンチ殿、現場はこちらです」
「……」
レオは大人しくジャンニの後を追って白大理石の階段を上がる。
カルミネとは後で話をせねばなるまい。




