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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第2章:あまりにも美しい助手

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17.あまりにも美しい助手1

 三角帽子をちょいと上げ、手早く仮面をつけたカルミネは、廃屋のような建物の前で立ち止まった。


 ノックをしようとして思い直し、物は試しとばかりに建付けの悪い扉を押してみる。


 ――あら。


 扉は嫌な音を立てて、カルミネを中へ招き入れた。


 無施錠とは。不用心な……。


 カルミネは渋い顔をしつつ、薄暗い室内をざっと見回した。


 家具らしい家具のひとつもない、むき出しの壁の二間の部屋。中は外観ほどみすぼらしくないが、大貴族の若君の新居としては些か粗末である。


 五年ぶりに帰郷してくる当の本人が「こっちの方が街の中心部だから。便利だろ」と言い張ったらしいのだが、子供時代を過ごしたねぐらが落ち着くんだろう、というのがカルミネの雇い主の見立てであった。


「失礼しまーす」


 カルミネは颯爽と断って、奥の部屋に足を踏み入れる。


「レオナルド・クッキアイオ様……?」


 確認のような呼びかけに応える声はない。


 カルミネは寝台で眠っている人物に近づき、上からにゅっと覗き込んだ。


 ――子供の頃から、独特の雰囲気のある綺麗な子だと思っていたけど。


 癖のない漆黒の髪。どことなく儚さを感じさせる、端正な顔立ち。物憂く閉じられた色素の薄い瞼は、髪の色と同じ、濡れたような漆黒の睫毛に縁取られている。


 ああ……。


 仮面の下でカルミネの目頭が熱くなる。


 本当に、帰ってきたんだ……。


 子供の頃の面影を残しつつ、今や美しい若君に成長したレオは、羽根布団にくるまってすやすやと眠っていた。


「レオナルド様、起きてください」


 カルミネはレオの肩の辺りをつかみ、控えめに揺する。


 ――本当は、もうちょっとゆっくり寝かせてあげられたら良かったんだけど……。


 馬車や船を乗り継ぎ、はるばる帰郷してきた直後である。


 カルミネは心の中で詫びながら心持ち身を屈め、レオに顔を近づけた。


「閣下。恐れながら、ヴェネツィアが憂えております」


 ぱち、と唐突に目が開いた。


 まだ夢とうつつの狭間にいるような物憂い表情のレオと、三角帽子に白のバウタ、体を覆う黒いマントという、人とも魔ともつかぬ白と黒のカルミネがしばし無言で見つめ合う。


「……マリーノの寄越した助手だな」


 鼻にかかった、物柔らかな甘い声がした。


「カルミネでございます、閣下」


 記憶の中よりも低い声に、カルミネの返事が一瞬遅れる。


「僕は貴族じゃない。画家の息子だ」


「承知しました、旦那」


 カルミネの口調はやや砕けたものになった。本人がそう名乗りたいならそのように。ここはヴェネツィア、虚を持たぬ実など野暮というもの。


 カルミネは恭しく首を垂れ、


「それでは、レオナルド・ヴィンチ様――」


「約束は夕方のはずだろ」


 レオはくるりと寝返りを打ち、カルミネに背を向けた。


「それは、僕もそのつもりだったんですが……」


 カルミネも慌ててレオの肩を引く。


 レオは頑なに背を向けたまま、


「僕、夜型だから朝は調子が出ないんだ……」


「そんなこと言ったって。旦那ァ、事件は待っちゃァくれませんや……」


 子供を困らせているとでも思ったのか、レオがふっと体の力を抜く。


「わっ」


 バランスを崩したカルミネが、仰向けになったレオに乗り上げる。レオの鼻先をバウタがかすめ、レオの手がカルミネの腰に添えられる。


 カルミネが恐る恐る視線を落とすと、まどろむような灰色の瞳いっぱいに、仮面姿の怪しい自分が映っていた。


「それ、取ったら?」


 バウタを目で指され、カルミネは三角帽子ごと悲しげに頭を振った。


「僕はあまりに綺麗なので、お貴族の殿様たちが良からぬ思いを抱かぬよう、顔を隠しているのです」


「大変だねぇ……」


 同情するような声音に、カルミネはふっと和んだ。滅多にない反応だ。


 レオから身を離し、寝台の横で畏まるカルミネに、レオがおっとりと眠そうに訊ねた。


「お前は貴族じゃないのかい」


「賤しい身分でございます。身支度はマリーノ様が」


 カルミネは口早に答える。無駄なお喋りはここまで。


「それより、旦那――」


「分かったよ」


 レオは根負けしたようにもそもそと羽根布団から這い出した。


 その様子を見守っていたカルミネがヒッと後ずさる。


「旦那は寝る時、何も着ないんですか」


「うん……服なんて煩わしいだろ」


 レオは寒そうな様子も見せず、気持ちよさそうに冷水で顔を洗っている。


 カルミネは礼儀正しく申し出た。


「お、お支度をお手伝いしましょうか」


「結構だ」


 水を滴らせたレオが物憂く髪をかき上げながら、ふふんと笑った。


「賤しい育ちでね」


 悪魔のように美しい笑みだった。


「……では僕は、隣の部屋でお待ちしています」


 カルミネはレオにさっと背を向け、ヴィンチ家の居間に向かった。


 レオに恐怖を感じた訳ではなかった。約束を違えて早朝から押しかけたというのに怒りもしない。レオの中身は間違いなくあの頃のレオのままだった。だが、記憶の中の儚げな優しいレオと、この美貌の若君がまだうまく結びつかない。


 カルミネは気持ちを切り替えるように軽く頭を振り、侘しい室内を改めて見渡した。


 寝台とか盥とか、取り急ぎ必要なものはご実家を頼ったのだろう。それにしても、この居間の殺風景なこと。どうしてこちらの調度も一緒に頼まなかったのだろう?


 待つほどもなく、細身のフロックコートに身を包んだパリ帰りの若様が、まだどことなく気だるげな様子で姿を現した。


 カルミネはがらんどうの居間に恭しく跪いた。


「――いと誉れ高き古い名を持つ御方、ヴェネツィアの憂いをお取り除きください」


 いとも優雅に首を垂れる美しい助手に、


「承知した」


 レオは気のない返事を寄越し、建付けの悪い扉へ足を向けた。

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― 新着の感想 ―
水鳥さんの、呪いのような祝福のような枷が活き活きとしていますね! この「承知した」以外を返すことのない十三番目、情の囚人、って感じがして大好きです。代々、こんな感じだったんだろうな、って思いました。
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