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海のバビロン~淫蕩この上なき堕落の都と半魔の坊ちゃんが捧げる純情の行方~  作者: 初春餅
第2章:あまりにも美しい助手

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16.帰郷

 海神ポセイドーネの宮殿のごとき、クッキアイオ宮の海の玄関で、悲しげな目がレオを出迎えた。


「レオナルド様、お帰りなさいませ」


「うん、ただいま」


 相変わらず悲しくもないのに悲しそうで、何だかほっとする。


「ご機嫌でございますな」


「まあね」


「さすが。お若い方は長旅の疲れも見せず」


 シルヴィオの世辞を聞き流しつつ、レオは祖父と義理の母が待つ広間へと向かう。祖父と会うのはヴェネツィアを立って以来、五年ぶりだった。


「ただいま戻りました、おじい様」


「うむ」


「レオナルド、立派になって」


「お義母様もお変わりなく」


 二人とも元気そうで何よりである。


 クッキアイオの豪奢な広間で祖父と義理の母を抱擁し、レオは引き留められるまま、彼らと晩餐を共にした。


 食事のマナーとて、もう完璧。


 パリ帰りの貴公子は、楽しい土産話で家族を楽しませた。


 頃合いを見て、レオが「では」と席を立つ。


「今日ぐらいこちらで過ごしても」と諦めきれぬ様子の義母の手に口づけ、「どこへ行くにも、あちらの方が便利ですから」とレオは優しく意志を押し通した。


「またご機嫌伺いにまいります――これからは、もっと頻繁に」


 去りがてにそう言い残し、レオはうっとりするような物憂い微笑を見せた。


 義母の前を辞した後は、お行儀のよい若君の仮面を脱ぎ捨て、館の勝手口たる陸の玄関からひょいと外へ出る。


「シルヴィオ、付き添いはいい」


「ですが、夜道のお一人歩きは……」


「男の一人歩きだよ。危ないことなんて何もない。それより、ありがとう」


「何がでございましょう?」


「住めるようにしてくれて」


 かつて父と暮らしていた、あのあばら家のことである。


 一年前に父が引っ越した後はレオが買い取り、帰郷後の住居にすると宣言していた。


「何をおっしゃいます。ご入用のものがあれば、またお申し付けください」


「うん。寒いから、もう戻って」


 シルヴィオにひらりと手を振り、レオは勝手知ったる狭い路地を機嫌よく歩き出す。


 ああ、やっと、帰ってきた……。


 この街(ヴェネツィア)の闇はやはり、レオの体によく馴染む。


 程なくして到着した懐かしい我が家は、見たところちっとも変っていなかった。


 建付けの悪い扉を潜って中に入ると、油絵の具の匂いがする――と思うのは、きっとただの感傷だろう。


 シルヴィオには、ひとまず寝台と寝具がほしい、それ以外は追々自分で、と言っておいた。


 シルヴィオの仕事に卒はなく、それらはかつてレオが父と暮らしていた頃と同じく、奥の部屋に設置されていた。


 欲しいとも言っていないが、盥と水差しも抜かりなく置かれている。


 あばら家住まいは許されても、身だしなみを忘れるのは駄目らしい。レオは無言の催促に従い、体を清めてから羽根布団に潜り込んだ。


 ん、何だ、この豪華な寝具は――。


 ここまで上等なものじゃなくてもよかったのだが、シルヴィオに庶民風でいいと言うのを忘れていたかもしれない。


 ああ、でも、もう眠い……。


 ほっとしたのと、旅の疲れ。


 レオは子供のように眠りに落ちた。




§




 すこぶる良い夢を見た。


 あなたの夢だ。


 五年ぶりに踏んだ故郷の岸壁から振り返ったラグーナの深い緑色が。


 耳をくすぐる楽しげな波音が。


 すべてがあなたのようだったから。




§




 冬霧に隠された小運河で、小さな影が無蓋ゴンドラに飛び乗った。


「ごめん、抜け出すのに手間取って」


 ありふれた三角帽子に黒いマントの、やや小柄な乗客は落ち着いた声で詫び、ゴンドラ漕ぎ(ゴンドリエレ)を振り返る。ゴンドラ漕ぎは無言のまま顎で座席を指し示す。遅刻してきた乗客は大人しく従う。


「やっぱり、運河は寒い……」


 乗客はマントを掻き合せながらぽつりと、


「外出は久し振りなんだ」


 凍てつく空気を味わうように、独り微笑んだ。


 運河を包む淡い霧がゴンドラの舳先で微かに揺れた。


「……謝肉祭カルネヴァーレの時期でも、この辺りは寂しいもんだね」


 小柄な客は普通の乗客のように、のんびりとゴンドラ漕ぎに話しかける。


「まだ朝だから? 夕方だったらもっと賑やかだったのかな」


 ゴンドラ漕ぎは黙々と櫂を漕いでいる。


「エリオ、相変わらず無口だね」


「今日のお前はよく喋るな」


 その一言で乗客を黙らせたゴンドラ漕ぎは器用に舵を取り、迷路のような狭い運河に小舟を滑り込ませた。


「よくこんな道を知ってるね」


「カルミネ」


 身を乗り出す乗客をゴンドラ漕ぎがたしなめる。


「ちゃんと座っておけ」


 華奢な背中はゴンドラ漕ぎの警告を無視した。


「――カルミネ」


 低い声で再度名を呼ばれ、今度は肩をすくめて従う。


 粗末な座席にゆったりと腰を落ち着け、澄ました顔で揺られているカルミネは、絵の中の貴公子のようだった。


 優しげな美貌は少女のよう。きらきら輝く濃緑の瞳はラグーナを写し取ったよう。鈍い光沢を帯びた、柔らかな金髪が一筋、帽子から覗いている。


 ゴンドラ漕ぎが出し抜けに言った。


「今度の仕事は気をつけろ」


「何に?」


 くつろいだ姿勢のまま、きょとんと訊ねるカルミネに、ゴンドラ漕ぎは口にするのも嫌そうに続けた。


「……魔物の血を引いていると聞いた」


 カルミネがぷっと噴き出す。


「誰がそんなことを? ……まあ、この僕がお仕えするんだから、それぐらいでなくちゃ張りがないってものさ」


 カルミネはゴンドラ漕ぎの言葉を否定せず、得意げに胸を反らした。


 ゴンドラ漕ぎは小さな溜息を吐いた。


「カルミネ、お前はとても利発な子だが……」


「――だが(・・)?」


「何と言うか、心配だ」


「アハハッ。大丈夫さ!」


 ゴンドラ漕ぎの視線の先で、三角帽子が楽しげに揺れた。


「僕も昔は未熟だったけど、もうあの頃の僕じゃないからね」


「いや、だからそういうところが……」


「ねえ、もっと飛ばして。急いでるんだ」


「無理だ。遅れてきたのはお前だろう」


 ゴンドラ漕ぎの返事はにべもない。煉瓦の橋を潜り抜け、一瞬のかげりの後の、再びの日差しにカルミネが目を細めた。


「……分かったよ、気をつける」


 日頃無口な友の忠告は無下にはできなかった。


「あっ、もうここでいい!」


 ようやく目当ての小運河に滑り込んだ舟が停まるのももどかしく、カルミネが飛び降りる。


「カルミネ!」


 友の声に振り向いたカルミネに、白い仮面が投げられた。


 バウタと呼ばれる一般的な仮面の変種で、顔の上半分だけを覆う半バウタ(メッツァ・バウタ)。角張っていて不気味なところは本家バウタと同じである。


「忘れ物だ」


「ありがと!」


 受け取るや否や走り出した後ろ姿は、波が引くように一瞬で小道に消えた。

バウタ:仮面の中で多分一番シンプル&ポピュラー。口元の部分が前に突き出していて、被ったまま飲食可能です

※メッツァ・バウタは創作です

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