15.死にぞこないの女王2
ナポレオンは呆気に取られて大使を見た。
――馬鹿な。
だが、稀代の戦略家たる彼はすぐに気づく。
海か。
陸の領土を放棄して、潟にこもって迎え撃つということか――。
ナポレオンの口から獣のような唸り声が漏れた。
陸では赤子同然のヴェネツィアも、海となれば話は別だった。潟という天然の要塞を持ち、近海の海底地形も潮の流れも、海での戦い方も熟知しているヴェネツィアは、その一千年の歴史の中で、どれほど国力が弱まった時であろうと、潟の本国への侵入を一度も許したことはない。
――おのれ……。
瀕死の老婆は最後まで運命に抗う気のようだった。
――領土放棄はこの為の布石か……。
腹立たしいことに、ヴェネツィアが取った方針は戦略としても優れていた。維持するだけの力もない陸の領土をすっぱりと切り捨て、潟に戦力を集中させる。
――どれほどの長期戦になる? いや、なったとして、果たして落とせるか?
用意周到なヴェネツィアのこと、籠城に備えた物資の備蓄はとうに始めているであろう。海での戦いはヴェネツィアに一日の長がある。ヴェネツィアが誇る国営造船所は、一晩で軍艦を一隻完成させるという……。
「――誤解があったようだ、大使」
ナポレオンはマリーノに満面の笑みを向けた。
豊かな足をもがれた蟹が、身を守る為にただひとつ残った爪を死に物狂いで振るっているところに、フランス兵を差し出すことはなかった。放っておいてもヴェネツィアはどうせ長くは持たぬ。
「イタリア本土のヴェネツィア領は、フランスに譲渡するのだな?」
「はい」
豊かな陸のヴェネツィアはともかく、僅かばかりの塩と魚しか取れぬ、張りぼての貧しい本国など、欲しいと思ったこともなかった。オーストリアも同様であろう。それでも欲しいというのならオーストリアが戦えばよい。
講和の成立の気配にも、マリーノは表情をぴくりとも動かさなかった。
「友好の証に、誠意を見せてほしい」
「それは……」
ナポレオンが要求してきた額は、本国から言い含められた上限の軽く二倍だったが、マリーノは端から受けるつもりだった。
本国の吝嗇が出せるとほざく、命の値段がそもそも安いと思っていた。二倍で済むならむしろ良い取引と言える。
険しい顔で俯いてみせたのは、迂闊に飛びついてしまえば、額が更に跳ね上がることを知っていたからだった。
ナポレオンの才は戦争だけでなく、交渉にもあった。
「閣下、我々は豊かな陸の領土を手放すのです」
「まだ手放してはいないだろう」
数度の控えめな減額要求と却下の後、マリーノは渋々承諾してみせた。
金で片が付くのなら、それに越したことはない。
しかも、実のところ金ならあった。
落日のヴェネツィアが放つ、退廃の甘い香りに吸い寄せられる金が。
この頃、国家の衰退とまるで歩調を合わせるように、ヴェネツィアは快楽の都として名を馳せるようになっていた。
一夜の愛の代価は夜空を流れる星のごとくヴェネツィアに降り注ぎ、賭博場では瞬きひとつの間に放蕩者の全財産がヴェネツィアの豊かな胸に消えた。
全き悪徳の都。
汚れた海のバビロン。
だが、その名が金になるのなら。
そして、それしか持たぬなら。
ヴェネツィアが進むべき道はひとつだった。
ヴェネツィアは国家の存続を賭けて、一大歓楽都市となることを、この時選んだのだった。
「……フランスの忠実な友よ」
ナポレオンが涼しい顔で言う。
「得をしたのは貴国の方だ。敗戦国の汚名を免れたのだから」
マリーノは曖昧な微笑みを返した。
名にこだわれば決して選べぬ道を、彼の母国は既に選んでいた。
首尾よく支払いを承諾させたナポレオンは、打って変わったような親しさで続けた。
「フェリエラ大使と言ったか。貴殿は随分、若いようだが……」
彼にしては珍しく、マリーノ個人への興味が湧いていた。
――開戦も辞さぬと言った、あれははったりだったのか、それとも。
「閣下の一歳年少でございます」
「……」
畏まって答えるヴェネツィア大使は、肚の内など無論読ませることはなかった。
若いな、と呟くナポレオンも、まだ二十七歳の若さだった。
ナポレオンは別れを惜しむように、世辞まがいの言葉を口にした。
「ヴェネツィアの街は世にも美しいと聞いている。いつか訪れてみたいものだ」
「是非に。閣下を国賓としてお迎えできることは、望外の僥倖にございます」
――決して、征服者としてでなく。
その時、眼差しに宿った狂おしいまでの激情を、マリーノはそっと目を伏せて隠した。
一七九七年のこの時、ヴェネツィアは紛う方なき敗者であり、ヴェネツィア大使にはいかなる軽挙も許されていなかった。
それが分からぬマリーノではなかったから、屈辱的な調印を終え、潟の本国に帰るまで、胸の内にくすぶる殺意は上品な笑みの下に隠し通した。
終生、共和国に一身を捧げたヴェネツィア貴族と、怪物とも英雄とも呼ばれたコルシカ男との、これが最初で最後の出会いだった。
ナポレオンはその後も勝利を重ね、遂には一代にしてフランス皇帝の冠を頭上に戴いた。
彼の栄光は決して陰ることがないように思われた。
だが、歴史に永遠の勝者は存在しない。
やがて、時代の寵を失い、失脚したナポレオンが流刑地セント・ヘレナで最晩年を過ごす頃、ヴェネツィアでは輝くばかりのテノールが大入りの劇場で勝利のアリアを歌い上げ、ヨーロッパの王侯貴族は相も変わらず賭博場に入り浸り、夜空に打ち上げられる無数の花火はアドリア海の水平線を煌々と照らしていた。
第1章:バビロンの軛(完)




