14.死にぞこないの女王1
――色街の女のようなのが来た。
ヴェネツィア共和国特命全権大使、マリーノ・フェリエラに対する、ナポレオン・ボナパルトの最初の印象がそれだった。
マリーノが知ったら、さぞ心外に思っただろう。
普段は自然に流しているだけの、ご自慢の赤毛を今日は後ろで一つに束ね、鹿爪らしい表情を顔に貼り付けている。
腐っても名門出身の若き外交官は、本日この日、己の口先ひとつで共和国の命運が決まるということを十二分に理解していた。
会談の場所は九つの砲台を持つ城郭都市、パルマノーヴァ。かつて猛る獅子のごときヴェネツィアがイタリア本土に築いた軍事拠点のひとつである。
今はナポレオン率いるフランス軍の作戦本部だった。
フランス軍イタリア方面総司令官に任命され、瞬く間にピエモンテ、ミラノを制したナポレオンは、当然のごとく北イタリアの豊饒なヴェネツィア領に侵入した。
名目は敗走するオーストリア軍の追撃だったが、その名目がアルプスの彼方に消えゆくまで、どれほどの時間もかからなかった。
ブレシア、ヴェローナと破竹の勢いでヴェネツィア領を落としながら進軍を続け、慌てたように次々と潟から出てくるヴェネツィア特使たちを片手で追い払い、ナポレオンは遂にはここ、パルマノーヴァから一方的な最後通牒を突きつけた。
――開戦か、降伏か。
凋落著しいヴェネツィアが、まともな陸軍を持たぬことなど百も承知だった。
「開戦か、降伏か」
マリーノの恭しいご機嫌伺いを遮り、ナポレオンはぶっきらぼうに訊ねた。
どのみちヴェネツィアに残された選択肢は降伏一択である。ナポレオンには時間を無駄にする気はさらさらなかった。
マリーノは天鵞絨のごとき滑らかな声で答えた。
「講和を」
「ハッ!」
怒りを押し殺したような笑い声が漏れた。
――赤子のように弄られるしか能のないヴェネツィアが、どの面下げて!
ナポレオンは苛立ちを隠そうともせず、女のような赤毛の大使を傲然と睨みつけた。
赤毛はひるむ様子を見せなかった。
それどころか意味ありげな眼差しをナポレオンに投げかけ、
「無論、タダとは申しません」
「ほう。何を差し出す? カネか?」
赤毛は嫣然と微笑んだ。
ナポレオンはこの時点でヴェネツィアとの交渉のテーブルに着いたも同然だった。
もっといいものです、と赤毛は天鵞絨の声で、ヴェネツィアが差し出す果実の名を囁いた。
「――イタリア本土のヴェネツィア領」
「……」
これにはさしものナポレオンも一瞬、声を失った。
聞き間違いでなければ、この妖艶な赤毛は今、ヴェネツィアがイタリア本土に有する広大な領土を譲渡すると言ったのだった。
――愚かな、赤毛め……。
ナポレオンは内心、快哉を叫んだ。
早々に手の内を明かされて、優位に立ったのはナポレオンだった。
彼は素っ気なく頭を振った。
「既にヴェネツィアのものではない」
「それでも、共和国が正式にそれを認めることには大きな意義がありましょう」
「……」
その通りだった。
ヴェネツィア領を実効支配しているとはいえ、それは中立を表明している友好国の領土に攻め入ってのことである。支配の正当性には当然、疑問符がついた。
「閣下、我々は多くを望みません」
赤毛の言葉をナポレオンは鼻で笑った。強欲で知られたヴェネツィアが、何を今更、無欲な乙女のようなことを。
「我々が望むのは潟に浮かぶ小さな国の存続、それだけです」
赤毛が切々と訴えるのを、ナポレオンは煩わしげに手を振って止めさせた。
赤毛の大使の様子から、それがヴェネツィア共和国の嘘偽りなき本心だということはナポレオンにも分かっていた。最大にして最後の切り札を早々に切ったのも、彼らなりに誠意を見せてのことであろう。かつて一大帝国を築いたアドリア海の女王も今や老いさらばえ、戦って領土を奪い返す力もない。
だが、老いたる女王の望みを聞いてやることはできなかった。
世界は既にヴェネツィアの降伏ありきで動いている。ヴェネツィアの頭越しにオーストリアと結んだ密約では、潟の中のヴェネツィアはオーストリアの取り分となることが決まっていた。
女王はここで死ぬ運命。
ナポレオンは意図的に怒りを爆発させた。
「今更そんなことが信じられるか! 貴国は口では友好を説きながら、一度も誠意を見せたためしがない!」
ナポレオンはヴェネツィアの罪をひとつひとつ挙げ連ねた。
フランス王党派の亡命を受け入れたこと、友人たるフランス軍への暴動やサボタージュを扇動したこと、それ以外にも数々の恥ずべき行為があったこと。
あらゆるヴェネツィア特使たちの前で何度も繰り返した罵倒は、今回も流れるように口をついて出た。
赤毛の大使はじっと黙って聞いている。
そのほとんどは言いがかりだったが、それは互いに承知のことだった。
「……交渉決裂ということであれば」
ナポレオンに好きなだけ罵らせた後、赤毛の大使がおもむろに口を開いた。
色街の女のような婀娜な雰囲気はいつの間にか消えている。
ナポレオンの目の前にいるのは、美しい顔をしているが、白い首も滑らかな肩も、上品に組まれた手指さえ、ごつごつと硬く骨ばった紛れもない男だった。
美しい男は天鵞絨の声で告げた。
「ヴェネツィアは開戦を受けて立ちましょう」




