13.薔薇色の心3
シルヴィオは意外そうに答えた。
「ピンピンしておりますよ」
――え?
レオは泡を食って、
「ちょ、ちょっと待って。おじいさんは確か……」
「ええ。大変な深手を負われたのですが、そのお陰であなた様がお生まれになっている可能性にお気づきになり……」
シルヴィオがそっと目尻を拭う。
「生きる張りを得たと申しましょうか、そこからのご回復は目覚ましいものがありました」
「もうお亡くなりになりそうだったから、急いで僕を捜したんじゃないんですか!?」
レオの言葉に「滅多なことを」とシルヴィオが顔をしかめる。
いやいや、だって……。
「初めてお会いした時に、レオナルド様を弾き返した力を憶えていらっしゃいますか? あれはおじい様のお力ですよ。わたくしに魔除けの守りを与えてくださっていたのです」
「えー……ものすごく元気じゃないですか……」
レオはよろよろとラシャ張りの壁に手をついた。
危うく祓われるところだったとは……。
「これ……。どこの世界におじい様がご壮健で、そんな憂鬱な顔をするお孫様がおりますか」
レオは到底納得のいかない様子で、
「だって、あなたの話だと――」
「わたくしはレオナルド様をお捜しすることになったきっかけをお話ししたまででございます」
「……」
――絶対に、わざとだ。
「僕、帰っていいですか……」
大運河のど真ん中で船室を出ようとするレオを、「ご冗談を」とシルヴィオが引き留める。
レオは嫌そうに身を捩りながら、素っ気なく告げた。
「もういよいよっていう時になったら呼んでください。その時は諦めて後を継ぎますから」
「そういう訳には参りません。レオナルド様にはおじい様にご挨拶なさった後、早々にパリに発って頂くことになっておりますので」
「パ……」
パリって……?
聞いたことがあるような無いような言葉に眉を寄せたレオが、次の瞬間ひゅっと息を呑んだ。
「魔界!?」
「どうでしょうな。パリからすれば、我らが海のバビロンの方がよほど魔界であるような」
毛を逆立てた猫のように、思い切り警戒しているレオに、シルヴィオがいつもの調子で説明した。
「陸のイタリアの向こうにある、フランスという国の首都でございます。かつてのヴェネツィアがそうであったように、今ではパリがヨーロッパの中心地なのです。クッキアイオ家の男子が身を修める場所としては、今の時代、パリを措いては考えられますまい」
「身を……修める……?」
悪い予感しかしなかった。
シルヴィオは「然り」と頷き、妙に気合の入った表情になった。
「レオナルド様には貴族としてのあるべき姿に始まり、マナー、教養、社交の技術などを彼の地で学んで頂きます」
「クッキアイオ家は社交しないでしょ!?」
「『しない』と『できない』は別のものでございます」
「しないならできなくていいでしょ!!」
「嘆かわしいですな、昨今のそういう風潮は」
シルヴィオはやれやれと首を振った後、渋面を作ってずい、とレオに近づけた。
「遊んでいる暇はありませんからね? 学問、剣、ダンス――乗馬」
「乗馬……?」
「馬、という生き物に乗る技術でございます」
「それこそ本気で要らないでしょ!!」
不安定な潟に無数の木の杭を打ち込んで造られた人工都市ヴェネツィアは、地盤があまりにも心許ないせいで、馬での乗り入れが禁止されている。この街における移動手段は中世以降、貴賎を問わず等しく舟か徒歩であった。
それ故か、馬に慣れないヴェネツィア貴族の乗馬のまずさは他国でもよく知られており、その不恰好な様子を揶揄する絵もあるほどだった。
あ、そう言えば……。
レオの記憶がふと蘇る。
マリーノからそんな話を聞いた父が、「こんな感じ~?」などと言いながら、何やら描いていたような気がする。
二人はその後、それを見ながら腹を抱えて笑い転げていた。
「絶対に、乗れるようになって頂かないと……」
暢気な二人とは違い、シルヴィオの形相には鬼気迫るものがあった。
「ヨーロッパで最も高貴な家柄のひとつ、クッキアイオ家の男子が、他国の者に嗤われることなど万に一つもあってはなりませぬ……!」
「ええー……僕は別に……」
実生活において一切不要な技術の習得は、ただ体面の為だけにのみ、必要不可欠であるらしかった。
「あの……魔を祓うだけじゃダメなんですか?」
「ダメに決まっておりましょう。貴族として生まれた者には皆、それ相応の振る舞いが求められるのです」
「で、でも僕、そんな話……」
聞いてないです、と言いかけるレオに、シルヴィオは有無を言わさぬ厳粛さでずばりと言い切った。
「それが人の世のルールというものです」
「……」
人の世はなんと生きにくい……。
半魔の子は反論する気も失せ、ぐったりと壁に寄りかかる。
船室を覆う重苦しい沈黙も知らず、ゴンドラは軽快に水を切る。
海神の宮殿のごとき、クッキアイオ宮が近づいてきた。
「……ところで、レオナルド様。もうまもなく到着でございますが、その前に当家のちょっとした事情をお話ししておかねばなりません」
シルヴィオはこの人には珍しく、少し言い淀んでいた。
「フランチェスコ様には、実は婚約者がおりまして……」
「ふーん……ん?」
聞き間違いだろうか。
今、シルヴィオは「婚約者」と言ったような?
「この方がフランチェスコ様の死亡による婚約解消をどうしてもお認めにならず、今も当家でお暮しなのでございます」
え……。何だそれは……。
「その人って、僕のお母さんとは別の人ですよね……?」
「別の方でございます。歴とした人間で、由緒あるヴェネツィア貴族の……」
そこはいい。
「つまり、僕のお父さんは、婚約者がいながら僕のお母さんと……」
レオの物憂い灰色の瞳がすっと温度を失った。
「僕のお父さんって、控えめに言ってクズだったのでは」
「何ということをおっしゃるのですか!」
何だよ。愛に一途な男なのかと思ったら……。
レオはよそよそしく言った。
「まあ、フランチェスコさんはお貴族様だから、婚約者と愛人がいてもおかしくないですね」
「フランチェスコ様に落ち度がなかったとは申せません。ですが、レオナルド様がお考えになっているようなことではないのです」
「はいはい」
レオは世馴れた顔で頷く。
シルヴィオはため息を吐き、念を押すように言った。
「くれぐれも接し方等、お間違いのないようお願いいたします」
「はいはい」
シルヴィオが苦い表情で額を覆う。
――パリ、かぁ……。
レオは視線を窓の外の海に向けた。
狭いヴェネツィアでならいざ知らず、陸のイタリアの向こうに行ってしまえば、ジェルソミーナと偶然会うこともないだろう。
――もうちょっと僕を刻んでおけばよかったな……。
離れている間も、ジェルソミーナがレオを忘れないように。
ああ、どうか、ジェルソミーナ。
頼れる男になって帰ってくるから、それまで僕を待っていて――。
小憎らしいシルヴィオに一矢報いたことにも気づかず、レオは心ここにあらずといった風情で、海を見ながら物憂いため息を吐いた。




