12.薔薇色の心2
「レオ!」
ジェルソミーナが慌てたように首を振る。
「そういうことは軽率に言ってはいけないよ。それはレオが大人になった時に、し、し、然るべき方に……」
はっと我に返り、ジェルソミーノの声色で鹿爪らしく諭そうとして失敗するジェルソミーナを、レオの物憂い眼差しが包む。
ジェルソミーナに子供扱いされるほど年が離れているとは思わなかった。確かにレオは小柄な方で、しかも実際よりもどうやら幼く見える質らしいというのは自分でも薄々気づいているが、いつまでもこのままということはない。ジェルソミーナぐらい、じきに追い抜く予定だった。
今はまだ、レオの額にジェルソミーナの唇が丁度触れる高さでも。
「ジェルソミーナ……」
今度ははっきりとその名を唇に乗せる。
――自惚れてはいけないだろうか。あなたは僕に取らせた手を引き抜かない。
その手を優しく組み替えて、レオは自分の左胸に当てさせ、上からそっと手を重ねた。
「僕はもう、捧げてしまいました」
「……!」
ジェルソミーナの顔が真っ赤だったから、レオはかえって冷静だった。
朝焼けの淡い薔薇色の中で、レオが捧げた心だけが速い鼓動を刻んでいた。
ジェルソミーナが瞼を伏せ、ほんの一瞬、つらそうな顔をする。
彼女が感情のようなものを垣間見せたのは、それが最後だった。
驚くべきことに、ジェルソミーナは意志の力で顔の赤みを消し去って、流れ落ちる絹のごとく、レオから手を引き抜いた。
「まったく、末恐ろしい……。いずれヴェネツィア中の令嬢たちが、君に夢中になるだろうね」
「ジェルソミーナ!」
ふふん、と笑ったその顔は、もう一分の隙もなくジェルソミーノの仮面である。
ジェルソミーノは寛大な微笑みを浮かべ、
「今のはなかったことにしてあげよう……。新参者の『才女気取り』と親しいと思われては、君の方が名を落とす」
「ジェルソミーナ、何を……」
ああ出たよ、とレオは物憂く目を細めた。
貴族の間にあるらしい、目に見えぬ壁。「新しい」とは、貴族となってたかだか九百年から五百年程度の家のことだった。これより後は一律「極めて新しい」である。ヴェネツィアでは建国当初からこの地を治めていた「古い」に至上の価値が置かれていた。
「あなたが……何と言われようと」
家名の古さしか誇るもののない愚か者の陰口など、ジェルソミーナの輝きを些かも損ねなかった。
ジェルソミーナは快活に、だが有無を言わせぬ口調できっぱりと言った。
「レオ、もうここまででいい。自分の家の帰り道ぐらい分かる」
「……」
送っていくと申し出たのは、そこを心配してのことではない。不埒者とか酔漢とか、下らない輩が近寄ってこないようにだ。
これが深窓のお嬢様というものなのか、しれっと大胆なことをする割に、こういうずれたことを言うから心配なのだった。
ジェルソミーナは「またね」も言わずに踵を返し、あっという間に路地に消える。
そのすばしこさは下町の少年そのもので、本人が自負するだけあって、確かに要所要所はうまく化けていた。
パツィエンツァ宮はもう目と鼻の先だったので、レオは強いて追いかけることはせず、とぼとぼと来た道を引き返し始めた。
――君の方が名を落とす。
「……」
朝日に照らされたこともあり、レオが物憂く壁に手をついた。
あれは体のいい断り文句ではなく、本気でそう言っていた。
今のままじゃ駄目だ……。
逞しい腕の中にジェルソミーナをすっぽりと包み、「愛しい人、下らない言葉に耳を傾けないで」と説得力を持って囁けるくらい、大人の男にならないと。
先の長い話だな……と肩を落としつつあばら家に帰宅すると、ここが貴族の邸宅であるかのような雰囲気を独り醸し出しているシルヴィオに恭しく出迎えられた。
「お帰りなさいませ、レオナルド様」
「あ、はい……。ええと、ちょっと最後にこの辺を一回りしておきたくて……」
言い訳めいた言葉が口をついて出る。
「お気持ち、ごもっともでございます」
シルヴィオはレオが逃亡を企てるとは露ほども思っていない様子だった。
やがて、元々悲しげな目をしたシルヴィオと、「そこまで送る」と言葉少なに申し出たジャコモに付き添われ、雀の涙ほどの手荷物を持ったレオが、血の気のない顔で住み慣れた家を後にする。
道中、何度も切なく視線を交わすヴィンチ親子に、シルヴィオは来た時と少しも変わらぬ上品さで告げた。
「ジャコモ殿。クッキアイオ宮に、あなたのご訪問を拒む扉などございませぬ」
「大貴族様のお屋敷に庶民がほいほい行けるかっての!」
大運河に程近い運河に出ると、黒鳥のごとく優美なクッキアイオ家のゴンドラがレオを待っていた。
お姫様のように手を取られて乗り込めば、いよいよ本当に別れの時だった。
「意地悪されたら、いつでも戻ってこいよ」
「父さん……」
ジャコモに手を振り、船室の座席にぽつんと腰を下ろす。
ゴンドラがゆっくりと動き始めた。
レオは窓から外を眺めながら訊ねた。
「おじいさんの容態は大分悪いんですか?」
ご臨終に間に合えばいいがと思っていた。




