11.薔薇色の心1
明け方、レオが目を覚ますと、シルヴィオは椅子に座ったまま静かに眠っていた。
この人がこんな隙を……。
レオはここぞとばかりにシルヴィオの寝顔をじっくり眺める。
綺麗に撫でつけられた銀髪も、積み重ねられた顔の皴も、上品で美しかった。何歳ぐらいか知らないが、「おじい様」とやらと同じぐらいの年齢だろうか。目を閉じているとそんなに悲しそうな顔でもなかった。
色々と食えない人物ではあるが、ずっと手厚く看病してくれた人である。レオは寝台からもそもそと這い出すと、被っていた亜麻布をシルヴィオの体に掛けた。
――こんなものしかなくて申し訳ないけど。
シルヴィオの言った通り、支障なく歩けるぐらいには回復していた。
レオは衣擦れの音をたてぬよう、静かに服を着替えた。今更逃げる気もないが、庶民の子、レオナルド・ヴィンチとして気楽に外を歩けるのは恐らくこれが最後である。朝焼けに染まるこの界隈を、最後にもう一度見ておきたかった。できれば光がまだ弱いうちに。
居間兼仕事場を横切ると、ジャコモが作業台の下で眠っていた。
またマリーノが来て、二人で飲んだのかな……。
いつもの光景なのに、愛おしさが胸に迫る。
レオはジャコモの寝姿を横目に、建付けの悪い扉を音もなくすり抜けた。
気配を残していったので、シルヴィオが目を覚ましても、しばらくはレオの不在に気づかないだろう。
朝の喧騒が始まる前のヴェネツィアは、街全体が薔薇色に包まれていた。
この世のものとは思われぬ淡い薔薇の靄の中を、レオは当てどなくふらふらと歩いた。
空にはまだ月が見える。
屋根にいるジェルソミーナと目が合った。
レオは驚きながら屋根に駆け上った。
なんで。なんで、こんなとこに――。
男装の令嬢はレオをちらりと一瞥し、
「君のことを考えていた」
レオを夢見心地にさせるようなことをさらりと言った。
「十三番目様のお孫さんだったって?」
「何故それを」
「ヴェネツィア中が知っているさ」
「お嬢様――」
「ジェルソミーノと」
ぬけぬけと言われ、レオは一瞬うっと鼻白んだが、
「おふざけに付き合う気はありません。ジェルソミーナお嬢様」
「ナ」に力を込めて言い返した。
「……」
ジェルソミーナが黙り込む。
何を考えているのか、相変わらず表情からは何も読めなかった。
レオが諦めたように訊ねた。
「何故、こんな恰好を」
ジェルソミーナがぷっと噴き出す。
「ヴェネツィア人にそんなことを訊くの?」
ヴェネツィアと言えば仮装、仮装と言えばヴェネツィア。
ややあって、「窮屈だから」と、それでも答えた。
そうか……。
その感覚は分からなくもなかった。
剣や学問、「男」の領分を能くする美貌の令嬢。
未婚の令嬢たちが強いられる籠の鳥の暮らしも、貴族社会の住人たちの暇に飽かしたねちっこい視線も、さぞかし煩わしいのだろう。
物言わぬ視線に潜む好奇、嫉妬、不寛容は雄弁で、「変わり者」の居心地の悪さは狭い世界ほど顕著である。
息が詰まる。
笑い方を忘れる。
いつしか呼ばれる。孤高の花、と。
――私が逃げる時も、あなたが助けてくれる?
逃げたところで。ジェルソミーナ・パツィエンツァ。
彼女にもそれが分かっているから、せめてひと時の仮装で別人になるのだ。
「お嬢様……」
「レオ、ジェルソミーノは諦めるから、せめてジェルソミーナと。この恰好でお嬢様と呼ばれるのは、少々具合が悪い」
レオに顔を近づけ、小声で囁くジェルソミーナにレオはどう伝えたものかと思いながら言った。
「そんな扮装をしていても、あなたが貴族だということくらい、誰にでも分かります」
ジェルソミーナは驚いたような顔をした。
「うまく化けたと思っていたけれど」
レオは首を振る。
「貴族のお姫様に、僕らの振りなんて絶対にできません」
「……」
衝撃を受けるジェルソミーナをレオが渋い顔で見やった。
今まで危ない目に遭わなかったというのなら、それは扮装の下で隠しきれずまばゆく漏れ出る元の身分に相手の方で恐れをなしたか、単に幸運だったのだ。
「そう」
しゅんと膝を抱えたから、レオの言わんとするところは理解したと分かった。
「……館までお送りします」
ジェルソミーナは素直に頷き、庶民の子の振りも忘れて淑やかに立ち上がった。
そこまでは良かったが、彼女は下に降りることなく、当然のように屋根伝いに歩き出した。
「お嬢様……!」
「ジェルソミーナと」
レオははらはらしながら後を追う。
限られた土地を是が非でも有効活用したいヴェネツィアに、落ちても大丈夫な高さの屋根はない。彼女が足を滑らせようものなら即座に肉の重さを引き取るしかなかった。
……ばれるだろうな、魔物だと。
どう考えても父方から貰った力ではなかった。
レオの乱れる胸中も知らず、ジェルソミーナの足取りは危なげないものだった。いい所にあった張り出しバルコニーから外階段へ飛び移り、難なく地面に戻ってくると、下町の少年のようにすいすいと煉瓦敷きの小道を歩く。
常習だな……このお姫様。
前を行くジェルソミーナが振り返り、思い出したように言った。
「そう言えば、クッキアイオ家の子は魔界に行くんだよね」
「……」
レオが物憂く眉を寄せる。
「貴族でもそんなの信じてるのか」という思いと、「やはり魔界に突き落とされるのでは」という思いが半々。
シルヴィオめ……。
疑惑の方がやや優勢となった時、額にふわりとジェルソミーナの唇が触れた。
え……?
「……レオにご加護を」
上からジェルソミーナの声が降ってくる。
息が止まるかと思った。
それほどの衝撃だった。
すぐ目の前に無防備な白い喉があった。
「無事に帰ってきますように」
そう言って、ジェルソミーナは殊勝げにじっとレオを見つめた。
海を宿した、あの濃緑の瞳で。
「……」
「なあに」
衝動のままに体が動いた。
レオはジェルソミーナの手を取り、瞼を伏せてその手の甲に口づけた。
「レッ……レオ……!?」
レオがクッキアイオ家の子息ならば、レオの身分は貴族だから、これは非礼には当たらない。
「――僕には過ぎたお心遣いを頂きました」
ただ一人の姫君に忠誠を誓う騎士の振る舞いが、非礼に当たるはずがない。
レオはジェルソミーナの手を取ったまま、愛を囁く騎士のように、密やかな熱を眼差しに込めた。
「何もお返しできないけど……僕の心を差し上げます」




