10.バビロンの軛4
いつの間に、と思う間もなく、ジャコモが部屋に入ってくる。
「あ、レオ……」
レオが起きていることに気づき、ジャコモがその場で足を止めた。
「あー……調子、どう……?」
「う、うん、まあまあ……」
ジャコモの態度にレオがつられる。
「丁度、お食事を召し上がられたところでございます」
シルヴィオだけがぎこちなさと無縁だった。
「正直、あばらの四、五本は折れ、うち一、二本は肺にでも刺さっておろうと覚悟しておりましたが、幸い骨折どころか打ち身一つなく……」
まあ、そうだろうな、とレオには驚きもない。レオは華奢な見た目に反し、肉も骨も普通の人間より強かった。父方と母方、両方からいいとこ取りをしているのだろう。
「回復もお早いことですし、明日にはここを出ていけるでしょう」
レオがはっとジャコモを見上げた。
ジャコモはレオの視線を避けるように、気まずげに目を逸らした。
「あー、レオ……十三番目様んとこに行けば、お前、何不自由ない暮らしができるし……」
レオがふい……と顔を背ける。
物柔らかな灰色の目から、ぽろりと水晶のような涙が物憂くこぼれ落ちた。
「なんで、そんなこというんだよ……」
「――嘘だよぉぉ! レオ、ずっとここに居ろよぉー!」
「父さぁぁん!」
わっと駆け寄ったジャコモが小さなレオの体を包み込む。
なさぬ仲の親子がひしと抱き合っているところに、シルヴィオは割って入ったりはしなかった。レオには今後のジャコモの見守りを、ジャコモにはレオの何不自由ない暮らしを確約している。明日は何の問題もなく出発できると思われた。
「お二人を引き離すようで心苦しいのですが、当家としてもあまり待てない事情がございまして……」
「ああ……そうだよな。もしかしてレオを迎えにきたのって例のあれ? 十三番目様が重傷を負ったっていう……」
「ええ、まあ……」
そう言えば、そんな話が出回っていた。
「ヴェネツィアの闇の守護者」こと十三番目様が、ヴェネツィアに突如襲い掛かってきた悪魔と戦い、深手を負ったとか負わなかったとか。
「突如と申しますか……ヴェネツィア逗留中のさるオーストリア貴族が、お遊びで呼び出してしまったようで」
お遊び?
レオとジャコモが目を丸くする。
ヴェネツィアで羽目を外す外国人は多いが、これは流石に違うと言いたい。
ジャコモは狭い寝台に腰を下ろし、親身になって訊ねた。
「それで、どうなったの?」
「無論、憂いは取り除かれましたが、八つ裂きにされる寸前だったそうで、満身創痍でございました」
「……」
ひどい話だな……。
何とも言えない顔をするレオとジャコモの鼻先で、シルヴィオはむしろ「得たり」と言いたげにぐっと拳を握った。
「ですが、アルジェント様は『ああもう死ぬな』と思った時、ふと気づかれたのだそうです」
……何を?
「――『ということはもしかして、孫が生まれているのでは?』と」
ああ……とレオが悔しそうに顔を覆った。
「考えてみれば当然のことでございました。水鳥めがクッキアイオの血筋を絶やすはずがございませんのに」
シルヴィオは「わたくしとしたことが」と言わんばかりに、大袈裟に首を振った。
「わたくしは浅はかにも、後継を失った主はいずれ、人の命の理から外れ、ただヴェネツィアを守る為だけに存在する、亡霊騎士のようなものになるのかと思っておりました。アルジェント様ご自身も、そう思っておられた節がございます。と言いますのも、フランチェスコ様を喪って以降のアルジェント様のお強さは凄まじく、神がかっておりましたので。今思えば、あれは偏にアルジェント様の精神力と、責任感の強さから来ていたのでしょう」
何それ可哀相。一人に背負わせ過ぎでは……。
善良なヴィンチ親子は抱き合って震えた。
「あなた様の存在の可能性に気づかれた時、おじい様は血を失い過ぎて顔面蒼白でございましたが、それは嬉しそうでございましたよ」
そう言って、シルヴィオは悲しげな目でじっとレオを見た。
「そういう訳で、おじい様の為にもどうか、レオナルド様……」
う……。これは人として断れないやつ……。
レオはよろよろと寝台に手をつく。
「むぅ……」
いろんなことを考え過ぎて、頭に血が上ってきた。
「……少し長く話し過ぎました」
シルヴィオが目顔でジャコモに断り、慣れた手つきでレオを横たわらせる。
「体の痺れはもう大分、取れてきているはずですから、明日の朝には歩けるようになっていると思いますよ」
「……」
レオは閉じかけた瞼を持ち上げ、シルヴィオを見上げる。
「わたくしではありません」と言いつつも、レオを弾き返した力が何か、シルヴィオには心当たりがありそうである。
シルヴィオはレオの耳元で優しく釘を刺すように言った。
「明日、具合の悪い振りをしても分かりますからね」
「……」
レオは返す言葉もなく、ぐったりと目を閉じた。




