第91話 白い祈りの移送令
白い移送令には、祈りの絵が刷られていた。
星へ両手を捧げる聖女の図柄は、幼いころの私なら清らかな慈悲に見えただろう。
今は、少女の手首を上向きに固定する鎖にしか見えない。
教会代理人は、療養環境の悪化を理由にした。
客間が封印されたこと、屋敷資産が係争中であること、周辺警備が不安定なこと。
そのすべてを作った側が、セシリアを守るためだと口にする。
「私は、移送を望みません」
セシリアははっきり言った。
その瞬間、彼女の喉元の聖印が白く光った。
声が途中で切れ、細い息だけが漏れる。
私の手首の薔薇も同時に痛み、手袋の内側が熱く濡れた。
教会代理人は、痛みを見ても眉ひとつ動かさない。
「発声に支障があるようです。やはり専門施設での静養が必要ですな」
私はその言葉で、視界が赤くなるのを感じた。
彼らは傷つけ、傷を理由に連れて行く。
* * *
アイリスが扉の前へ立った。
剣は抜かない。
しかし抜かずとも、彼女の背は壁のようだった。
「本人が拒絶している。移送は認められない」
「騎士団への照会では、あなたの自宅待機命令も準備されています。ここで公務を妨げれば、叙任の再審が」
アイリスの肩が一瞬だけ揺れた。
取り戻したばかりの剣と名を、また人質にする気だ。
ノエルが小さな魔導器を掲げる。
「発声時の聖印反応を記録した。移送理由は療養ではなく封殺」
「無許可の魔導測定は証拠能力を持ちません」
エリスが笑った。
「証拠能力を決める前に、燃やす棚を決めるのが教会でしょう」
代理人の目が細くなる。
言葉の刃が増えるほど、セシリアの呼吸が浅くなる。
私は彼女の手を握りたかった。
でも、今握れば、彼女が立っている力まで私のものに見せられるかもしれない。
だから私は、彼女へ問いかけた。
「セシリア。声が出なくても、どうしたいか示せる?」
彼女は涙をこらえ、頷いた。
石板に震える字で書く。
行きたくありません。
* * *
その石板を、教会騎士が見なかったことにした。
私は初めて、玄関広間で声を張った。
「本人意思の記録を無視するなら、立会人全員の名をここに書きなさい」
書記が怯んだ。
外には見物人も、ミレイユが呼んだ商人証人もいる。
完全な密室にはできない。
けれど王宮と教会は、密室でなくても押し切る準備をしていた。
騎士の背後から、王宮法務院の命令補助書が出される。
聖女候補の一時保護について、抵抗があった場合は身体拘束を認める。
アイリスが動くより早く、セシリアが首を振った。
彼女は私たちを見た。
私のせいで誰かが傷つくのは嫌だと、その目が言っている。
それは優しさだ。
そして、彼女を縛ってきた古い呪いでもある。
私はその呪いを切りたかった。
けれど破約の薔薇は、彼女の本心を越えては動けない。
セシリアが自分で痛みを飲み込んだ瞬間、薔薇は届かなくなる。
「セシリア、あなたは悪くない」
声が届いたかどうか、わからなかった。
* * *
移送馬車の扉が閉まる時、セシリアは窓に手を当てた。
白い手袋の指が、硝子の向こうで震えている。
私は玄関段を駆け下りた。
アイリスとユーリアが同時に私を止める。
追えば乱闘になる。
乱闘になれば、残る六人の身柄も押さえられる。
そんな理屈はわかっている。
わかっているのに、身体は前へ出ようとする。
馬車が動いた。
セシリアの唇が何かを形作る。
音は届かない。
けれど私は、彼女が何を言ったのか知っている気がした。
帰ります。
そうであってほしいと、私が願っただけかもしれない。
白い馬車は教会騎士に囲まれて、東門の方角へ消えた。
移送前の数分、セシリアは自分で身支度をした。
教会騎士は急かしたが、彼女は髪紐を結び直し、詩集と蜂蜜壺を鞄へ入れ、祈り布を最後に畳んだ。
私は手伝いたい衝動を抑え、扉のそばで待つ。
これは別れの準備ではない。
彼女が自分のものを自分で選び、連れて行かれても奪われない印を持つための時間だ。
セシリアは鞄を閉じると、石板に短く書いた。
帰るために持っていきます。
教会代理人はその文字を不快そうに見た。
けれど、移送の記録係がいる前で鞄まで取り上げることはできなかった。
ミレイユがすかさず、携行品目録を二部作る。
エリスは目録の写しを索引札に挟み、ノエルは鞄に残る魔力反応を記録した。
アイリスは扉を塞ぐように立ちながら、セシリアへ敬礼した。
サフィラは王女の礼で頭を下げる。
ユーリアは何も言わず、馬車の車軸へ影糸を一本だけ残した。
それらすべてが、奪われるだけでは終わらせないという小さな抵抗だった。
セシリアは最後に私を見た。
声は出ない。
それでも彼女の目は、私に来てと命じていなかった。
待っていて、とも違う。
一緒に戦ってください。
たぶん、そう言っていた。
馬車が去ったあと、玄関広間には石板の粉が残っていた。
セシリアが最後に握りしめたせいで、角が少し欠けていたのだ。
私はそれを拾い、掌に載せた。
ただの石の欠片なのに、彼女の声の欠片のように思える。
エリスがそっと布袋を差し出した。
「証拠として保管しましょう。発声を封じられた本人が、筆記で拒絶を示した道具」
証拠。
そう言われて、私はようやく息をした。
悲しみだけで持てば、私はこの欠片を握り潰してしまう。
証拠として持てば、裁判まで運べる。
ミレイユが目録に石板片と書き、ノエルが残留魔力を測り、アイリスが保管箱を探し、サフィラが移送時の立会不備を書き足した。
ユーリアは扉の外で、馬車の車輪跡を写している。
セシリアを奪われた直後でも、彼女たちは動いている。
私だけが怒りに溺れてはいけない。
そう思うのに、馬車の消えた道を見ると、身体がまた走り出そうとした。
移送馬車の車輪跡を、ユーリアは紙に写した。
泥の深さ、車軸の幅、馬の蹄の欠け方。
彼女はそれを淡々と説明したが、声の底には怒りがあった。
「聖都へ直行する馬車ではありません。途中で乗り換えるための軽い車体です」
つまり、追跡を振り切る準備が最初からされていた。
セシリアを療養させるためではなく、私たちから切り離すための移送だ。
アイリスが拳を握り、サフィラが外務局へ送る抗議文を一枚増やし、ミレイユが車輪職人の名簿を買うと言った。
怒りは全員にあった。
ただ、怒りの使い方だけを間違えないよう、私たちは互いの顔を見た。
破約の薔薇が、届かない距離を知ったみたいに、手首の奥で鈍く沈んだ。
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