第90話 空になった薔薇の客間
薔薇の客間は、夕暮れまでに空になった。
家具は封印され、寝台の天蓋は取り外され、花瓶の水だけが床に細い跡を残している。
セシリアが初めて安心して眠った部屋は、調書の中で係争資料保管候補室という名に変えられた。
私は扉の前に立ち、鍵を差し込むこともできないまま、白い封印紙を見つめた。
紙一枚で部屋は閉じる。
けれど、その部屋で交わした約束まで閉じられるわけではない。
そう思いたいのに、胸のどこかが冷えていた。
「私のせいです」
隣でセシリアが言った。
予想していた言葉なのに、実際に聞くと痛い。
「私がここに来たいと言ったから、この部屋が狙われました」
「違うわ」
すぐに否定した声が、少し強すぎた。
セシリアは肩を震わせる。
私は息を整え、もう一度言い直した。
「あなたが来たいと言ったから、この部屋は客間になったの。狙ったのは、あなたの選択を嫌う人たちよ」
* * *
空になった部屋から、持ち出せたものは少なかった。
セシリアの髪紐、祈り布、読みかけの詩集、小さな蜂蜜壺。
彼女は蜂蜜壺を両手で包み、泣きそうな顔で笑った。
「最初に、薬が苦いから少しだけ入れてくださったものです」
「あなたが苦いものは苦いと言えた日ね」
「はい。あの時、嫌だと言ってもよいのだと、少しだけ思えました」
部屋が空になっても、そういう小さな日々は彼女の中に残っている。
私はそれを忘れないよう、自分にも言い聞かせた。
アイリスが封印紙の前で警備の立ち位置を確認し、ノエルは室内に残された魔力痕を扉越しに測る。
ミレイユは封印執行時の立会人名を控え、サフィラは外交贈答品の押収未遂として薔薇鉢の件を書き留めた。
エリスは詩集の余白に挟まっていた古い祈祷票を見つけ、目を細める。
「これ、教会の移送準備票に似ているわ。日付が空欄のまま、部屋に忍ばせてあった」
セシリアの指から、蜂蜜壺が滑りそうになった。
ユーリアが即座に受け止める。
「最初から、この部屋を理由に連れ戻す準備があったということですか」
セシリアの声が掠れた。
* * *
夜、私たちは狭くなった食堂で荷を分けた。
セシリアは自分のものを小さな鞄に詰める。
その動作が、まるでいつでも移される準備のように見えて、私は見ていられなくなった。
「詰めなくていいわ」
言った瞬間、彼女は手を止めた。
私は自分の焦りに気づく。
荷を詰めるかどうかも、彼女が決めることだ。
「ごめんなさい。命令したかったわけではないの」
「わかっています」
セシリアは鞄の口を撫でた。
「でも、準備していると、連れて行かれても迷惑をかけないようにしているみたいで嫌です」
「なら、何を入れるかを変えましょう」
私は詩集を取り、彼女の鞄へ入れた。
「連れて行かれるためではなく、帰ってくるまで失くさないために」
セシリアは少し考え、蜂蜜壺を布で包んで入れた。
「では、これは帰ってきた時の薬に入れます」
その言い方に、部屋の空気がわずかに緩んだ。
帰る、という言葉を彼女自身が選んだからだ。
* * *
深夜、門前の白い外套が増えた。
教会騎士団の馬車が二台、通りの角に停まっている。
ユーリアが戻るより早く、屋敷の鐘が鳴った。
こんな時刻に鳴らす礼儀など、もう礼儀ではない。
玄関へ向かうと、教会代理人が新しい命令書を持って立っていた。
聖女候補セシリア・ルミエールの療養環境悪化に伴う緊急移送。
差し押さえによって客間が使用不能になったため、教会保護施設へ移す。
彼らは自分たちで部屋を奪い、その空白を理由に彼女を奪い返そうとしている。
私の手首の薔薇が、熱を持って裂けるように痛んだ。
セシリアが私の隣に立つ。
封印された扉の前で、セシリアは詩集を開いた。
ページの間には、以前アイリスが護衛中に摘んできた小さな花が挟まれている。
乾いた花弁は色を失っていたが、形は残っていた。
「この部屋で、みんなが少しずつ私を甘やかしてくれました」
セシリアは花弁を指先で撫でる。
「アイリス様は廊下の足音を数えてくれて、ノエル様は眠れない夜の魔導灯を弱くしてくれて、ミレイユ様は苦くない薬の飲み方を考えてくれて、サフィラ様は窓辺の花の名前を教えてくれて、エリス様は怖くない本を選んでくれて、ユーリア様は誰にも気づかれず朝の水を替えてくれました」
彼女の声は震えていた。
「だから、空になっても、ここは空っぽではないです」
私はその言葉に救われ、同時に痛んだ。
彼女が思い出を守ろうとしているのに、私は部屋を失った事実ばかり見ていた。
「帰ってきたら、また部屋を作りましょう」
「同じ部屋でなくても」
「ええ。同じでなくても、帰る場所にします」
セシリアは詩集を閉じた。
その表紙を鞄へ入れる手つきは、連れて行かれる準備ではなく、戻る準備に見えた。
移送令が届く前、セシリアは空の客間へ最後の挨拶をしたいと言った。
封印紙を破ることはできない。
だから扉の前に立ち、彼女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
部屋に礼を言う人を、私は初めて見た。
でも考えてみれば、セシリアにとってここは単なる部屋ではない。
初めて嫌だと言ったあとに眠れた場所であり、薬が苦いと言えた場所であり、手を握るかどうかを自分で選べた場所だ。
彼女は封印紙へ触れず、床に落ちていた花弁を一枚拾った。
差し押さえの混乱で誰にも気づかれなかった、小さな薔薇の欠片。
「これだけ、持っていってもいいでしょうか」
「あなたが拾ったものよ」
セシリアはそれを詩集に挟んだ。
空になった部屋から、彼女は思い出を盗まず、自分の歩いた証だけを拾った。
その慎ましさが、あまりに彼女らしくて苦しかった。
夜の食堂で、私はセシリアの鞄に目印を縫い付けた。
薔薇の刺繍では目立ちすぎる。
教会に見つかれば取り上げられるかもしれない。
だから裏地の縫い目に、ミレイユが選んだ赤い糸を一針だけ入れた。
ノエルはその糸に微かな魔力を通し、エリスは携行品目録へ装飾なしと書いた。
嘘ではない。
装飾ではなく、帰るための目印だからだ。
セシリアは鞄を抱き、目を伏せる。
「連れて行かれる準備ではなく、戻る準備ですね」
「ええ。あなたが戻る時、私たちが見つけるための」
その時はまだ、こんなに早く本当に連れて行かれるとは思っていなかった。
白い命令書の向こうで、移送馬車の扉が開いていた。
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