第89話 差し押さえの朝
差し押さえは、朝食の湯気が消える前に始まった。
王宮法務院の書記、徴税官、教会の立会人、近衛の小隊。
彼らは門前で整列し、屋敷の鐘を鳴らすことなく、仮執行状を掲げた。
私は玄関広間で迎えた。
背後には七人がいる。
逃がしたい気持ちも、隠したい気持ちもあったが、彼女たちは隠されることを選ばなかった。
「係争中資産の保全のため、ヴァルトローゼ王都邸の一部を封鎖します」
徴税官の声は事務的だった。
事務的な声ほど、生活を壊す時に痛みを見ない。
靴箱、銀器棚、客間、書庫の一部、馬車庫、薔薇温室。
読み上げられる場所は、どれも私たちが息をしてきた場所だった。
セシリアが初めて眠れた客間。
アイリスが主君ではなく客人として座った椅子。
ノエルが徹夜明けに寝落ちした書庫の長椅子。
ただの物として数えられるたび、胸の奥で何かが削られていく。
* * *
私は最初に人を逃がした。
使用人たちへ退避金を渡し、残る者と出る者をそこで選ばせる。
ミレイユが昨夜用意した銀冠は足りない。
それでも、ただ命じて残らせるよりはずっとましだった。
次に証拠を移した。
エリスの索引箱、ノエルの観察記録、セシリアの診断書、アイリスの叙任証、サフィラの外交便写し、ミレイユの脅迫封書、ユーリアの焼けかけた命令書。
徴税官が書庫の棚へ封印紙を貼ろうとした時、エリスが低い声で言った。
「その棚は私物です」
「屋敷内の資料は一時保全対象です」
「中身を読めない者が保全という言葉を使わないで」
空気が裂ける。
アイリスが一歩動き、私は手で制した。
ここでぶつかれば、証拠は暴力沙汰の付属物にされる。
「棚ごとではなく、目録を作成してください。封印するなら、こちらの写しと照合のうえで」
徴税官は不満そうだったが、周囲に見物人がいるせいで強引にはできない。
ミレイユがいつの間にか、近隣の商人たちを証人として招いていたのだ。
* * *
差し押さえ札は、物を人質にするための札だった。
銀器に貼られた時より、セシリアの薬箱に貼られた時のほうが、私は怒りを抑えるのに苦労した。
「療養品です」
セシリアが自分で言った。
声が震えている。
でも、沈黙命令の時のように石板へ逃げなかった。
「私が使います。持ち出しを認めてください」
教会立会人が眉をひそめる。
「聖女候補の療養品なら教会で管理するほうが」
「私はここで療養しています」
短い言葉が、床にしっかり立った。
私は彼女の横顔を見て、胸が痛むほど誇らしかった。
結局、薬箱は内容確認のうえ持ち出し許可となった。
小さな勝利だ。
けれどその間にも、廊下の絵、温室の鉢、客間の鍵、私たちが選んだ生活の形が次々と赤い札で縛られていく。
サフィラが青い薔薇の鉢を抱え、行き場を失ったように立っていた。
「これは外交贈答品です。押収すれば問題になります」
「では、問題になるまで守りましょう」
私はそう言って、鉢を彼女の腕へ戻した。
* * *
夕方、屋敷の半分が封印された。
残された部屋へ全員で荷を運ぶと、サロンは急に狭くなった。
狭いのに、距離は遠く感じる。
誰も泣かなかった。
泣く余裕がないほど、次の手順が迫っていた。
私は最後に薔薇の客間へ向かった。
セシリアが初めてここを檻ではないと言った部屋。
その扉に、教会立会人が白い封印紙を貼ろうとしていた。
「そこは客間です」
「聖女候補に関する係争資料が保管されていた可能性があります」
可能性。
その曖昧な言葉で、思い出まで封じられる。
私は一歩踏み出したが、セシリアが先に扉へ手を置いた。
「この部屋は、私が帰る場所です」
教会立会人は答えず、封印紙を貼った。
差し押さえの最中、台所で小さな騒ぎが起きた。
徴税官の補佐が、蜂蜜壺と薬草箱をまとめて保全対象に入れようとしたのだ。
ただの備品だと言われれば、それまでかもしれない。
けれど蜂蜜はセシリアが苦い薬を飲むためのもので、薬草は聖女魔法を使いすぎないために聖堂医師が調合したものだった。
私は声を荒らげかけた。
その前に、セシリアが補佐の前へ出た。
「これは、私が使う薬です。持っていかれると困ります」
彼女の声は小さい。
だが、聞き返されるほどではなかった。
補佐は教会立会人を見た。
自分で判断する気がない目だ。
セシリアはもう一歩踏み出す。
「私が困ります。レティシア様ではなく、私が」
その一文が、台所の湿った空気を変えた。
彼女は私の影に隠れていない。
奪われる物を、本人の生活として取り戻そうとしている。
補佐は不満そうに帳面へ例外と書いた。
その小さな例外を、私は忘れないと思った。
大きな裁判の前に、私たちは台所の蜂蜜壺ひとつを守るところからしか始められない。
でも、誰かの生活はそういうひとつでできている。
夜、封鎖を免れた狭い部屋に布団を並べた。
貴族令嬢たちの暮らしとしては、笑ってしまうほど窮屈だ。
けれど誰も文句を言わなかった。
ノエルは寝返りのたびにエリスの本へぶつかり、エリスが文句を言い、ミレイユが寝不足は美容の敵だとぼやき、アイリスが扉の前で眠ろうとして全員に引きずり戻された。
サフィラは慣れない雑魚寝に戸惑い、セシリアがそっと隣へ招いた。
ユーリアは窓辺に立とうとし、私が布団を指差すと、珍しく少し困った顔をした。
差し押さえられた屋敷で、私たちはほんの少し笑った。
笑っていいのかと迷うくらい、状況は悪い。
でも、その笑いがなければ、私たちは物として数えられた部屋に負けてしまう。
私は最後に灯りを落とし、狭い部屋の息遣いを聞いた。
守りたい。
その願いは、以前より切実で、以前より危うかった。
差し押さえの記録係は、私たちの表情まで見ていた。
泣けば混乱、怒れば反抗、笑えば不謹慎と書かれるのだろう。
私はその視線に気づき、あえて記録係の名を尋ねた。
若い書記は戸惑いながら名乗る。
その名をミレイユが帳簿へ書き、エリスが読み上げ、ノエルが時刻を添えた。
見られるだけの側ではない。
こちらも相手を記録する。
それだけで、若い書記の筆先は少し鈍った。
権力の列に並ぶ者も、名前を持つ個人だ。
個人として見られることを嫌がる時、彼らの正しそうな手続きは少しだけ揺らぐ。
セシリアは封印紙の余白に目を落とし、そこへ小さく日付を書いた。
誰かがこの扉を開ける日を、今日から数えたいのだと言う。
閉じられた部屋にも、帰るための暦を残す。その震える筆跡を、私は胸に刻んだ。
白い紙が扉を横切った瞬間、セシリアの手から力が抜けた。
お読みいただきありがとうございます。
続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。




