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第92話 聖女候補を返せ

 馬車が見えなくなっても、私は門前から動けなかった。


 石畳には車輪の跡が残っている。


 それを辿れば、今すぐ追える気がした。


 セシリアを返せ。


 喉まで上がった言葉は、貴族令嬢の礼儀も裁判の手順も焼き払うほど熱かった。


 私は振り返り、馬車庫へ向かう。


 封印紙の貼られた扉を破れば馬車は出せる。


 破れば差し押さえ妨害になる。


 構わない、と一瞬思った。


 その瞬間、アイリスが私の前に立った。


「行かせません」


 低い声だった。


 主君を止める騎士の声ではない。


 恋する相手を失わせないため、嫌われる覚悟を決めた声だった。


「どいて」


「どきません」


「セシリアが連れて行かれたのよ」


「だからです」


 アイリスの目が揺れる。


 彼女だって追いたいに決まっている。


 それでも剣ではなく身体で私を止めている。


* * *


 食堂に戻ると、残された六人の顔色は悪かった。


 セシリアの椅子だけが空いている。


 その空白が、部屋の中心に穴を開けていた。


 私は地図を広げ、聖都へ向かう道を探す。


 東門、巡礼街道、教会宿、短距離転移陣。


 どれも教会の管理下だ。


 ミレイユが費用を書き出すが、凍結の影響で即座に動かせる金は少ない。


 サフィラは国境門の停止で外交圧力をかけられない。


 エリスは移送先の候補を三つ挙げたが、どれも罠の可能性がある。


 ノエルは聖印反応の距離限界を計算し、最後に朱筆を置いた。


「今、正面から奪還すると、成功率は低い。失敗時の損害が大きすぎる」


「数字で言わないで」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


 ノエルの顔が少しだけ強張る。


 私はすぐに謝ろうとして、言葉が詰まった。


 焦りが、私の口を誰かを傷つける形に変えている。


 セシリアを守りたいのに、残った人たちを削っている。


* * *


 アイリスが地図の上に手を置いた。


「レティシア様。私はあなたを止めます。あなたが私を嫌っても」


「嫌うわけがないでしょう」


「なら、聞いてください。今追えば、私たちはセシリアを助けに行くのではなく、敵が用意した檻へ全員で入ります」


 言葉は正しい。


 正しいから苦しかった。


 ユーリアが静かに続ける。


「王家の影が東門へ流れました。追跡者を待つ配置です。お嬢様が動けば、単独出奔として記録されます」


 ミレイユが扇を閉じる。


「さらに、屋敷へ残った証拠は押収されますわ。私たちが戻る場所も消えます」


 私は椅子の背を握った。


 木が軋む。


「では、待てというの」


 エリスが首を振った。


「待つのではなく、届く道を探すの。祈りが届かないなら、紙。紙が燃やされるなら、人。人が止められるなら、金と噂」


「全部、時間がかかる」


「ええ。だから焦る相手に、時間を作らせないの」


 その言葉で、少しだけ息が入った。


* * *


 夜、私たちはセシリア奪還のための役割を決めた。


 アイリスは東門の追跡配置を調べる。


 ユーリアは影の連絡網から移送先を割り出す。


 ノエルは聖印反応の残滓を追う魔導式を組む。


 ミレイユは凍結外の金で情報を買う。


 サフィラは大使館の沈黙を揺さぶる。


 エリスは教会記録庫の移送簿を探す。


 私は、全員を動かす許可を出すだけでは足りない。


 自分も動きたい衝動を、全員の命を預かる判断へ変えなければならない。


 それが、今の私にいちばん難しかった。


 深夜、王宮から黒い封書が届いた。


 王太子ユリウス名義。


 セシリア・ルミエールとの面会を望むなら、レティシア・ヴァルトローゼ単独で王宮へ出頭せよ。


 作戦を立てながら、私は何度もセシリアの石板を思い出した。


 帰るために持っていきます。


 彼女は連れ去られる瞬間でさえ、戻る意思を選んだ。


 それなのに私は、返せという怒りだけで彼女を追いかけようとしていた。


 返せ、は相手へ向けた正しい怒りだ。


 けれどその言葉だけでは、セシリア本人がどう戻りたいかを見失う。


 アイリスに止められた悔しさが、少しずつ別の形へ変わっていく。


 私は地図の端に、セシリアの持ち物を書き出した。


 詩集、蜂蜜壺、祈り布、石板。


 それらは彼女の現在地を示すだけでなく、彼女が帰る意志を保つための支えだ。


 ノエルは蜂蜜壺に残る薔薇香の魔力を追えるかもしれないと言い、ミレイユは詩集の購入記録から教会側が没収した場合の売買経路を追えると考えた。


 エリスは祈り布の織り印が聖都南院の洗濯記録に残る可能性を指摘する。


 怒りが、ようやく道具になり始めた。


 私は深く息を吐く。


「返せ、と叫ぶだけでは足りないわね」


 アイリスが頷く。


「返ってこられる道を開きます」


 私が冷静さを取り戻しかけたころ、門前で民衆の声が上がった。


 聖女候補を返せ、と誰かが叫んでいる。


 一瞬、味方の声かと思った。


 けれど続く言葉で違うとわかった。


 聖女候補を教会へ返せ。悪役令嬢の屋敷から返せ。


 同じ言葉でも、向ける先が違えば刃になる。


 私は窓へ近づき、カーテンの隙間から外を見る。


 教会が煽った巡礼者たちが、白い布を掲げている。


 その中には、本当にセシリアを信じている人もいるのだろう。


 彼女の祈りに救われた人もいるのだろう。


 だからこそ、彼らは彼女をひとりの少女として見られない。


 聖女候補を返せ。


 私も同じ言葉を叫びたい。


 でも私は、セシリアを役割へ返したいのではない。


 彼女自身へ返したいのだ。


 その違いを間違えたら、私は敵と同じ場所に立つ。


 アイリスが隣に来た。


「今の顔なら、追跡ではなく奪還計画の顔です」


「ひどい顔でしょうね」


「はい。でも、必要な顔です」


 その日の夕方、アイリスは私に剣を預けた。


 彼女自身が使う剣ではなく、訓練用の短い木剣だ。


「怒りで走り出しそうになったら、これを握ってください」


「なぜ木剣を」


「抜けない剣です。握っても誰も斬れません。でも、手は塞がります」


 あまりに真面目な顔で言うので、私は少しだけ笑った。


 アイリスも、ほんのわずかに表情を緩める。


 彼女は私を子ども扱いしているわけではない。


 自分もかつて、剣を握ることでしか怒りを支えられなかったから、握っても傷つけない道具を渡してくれたのだ。


 私は木剣を受け取った。


 それは騎士から主君への忠誠ではなく、恋する少女から焦る私への不器用な手当てだった。


 木剣の柄には、アイリスの指の跡が薄く残っていた。


 訓練で何度も握り直した跡だ。怒りを刃にしないため、彼女自身もこの木剣で耐えてきたのだとわかる。


 私はそれを胸元へ置き、走り出す前に一度だけ握ると決めた。


 同伴者、護衛、記録係を認めず。


お読みいただきありがとうございます。

続きも毎日更新予定です。作品フォロー、評価、ブックマークで応援いただけると励みになります。

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