第93話 王太子の面会条件
黒い封書は、昔の婚約文書と同じ匂いがした。
王宮の高い部屋、磨かれた床、誰かに選ばれるための笑み。
私が悪役令嬢として整えられていた日々の匂いだ。
ユリウスは、私がその匂いに弱いことを知っている。
単独出頭。
セシリアとの面会を餌に、私を七人から切り離す条件だった。
読み上げると、食堂の空気が凍った。
アイリスは即座に却下し、ユーリアは封書の紙質から王宮内の経路を読み、ミレイユは条件の曖昧さを指摘した。
ノエルは同伴不可の術式的意味を調べ、エリスは王太子の名で教会施設の面会を保証できる矛盾に皮肉をこぼす。
サフィラは、外交上も危険だと言った。
みんな正しい。
それでも私の目は、セシリアとの面会という一行から離れなかった。
* * *
「会えるかもしれない」
口に出した途端、全員の視線が刺さった。
責める視線ではない。
心配する視線だ。
それが余計に苦しい。
「罠です」
ユーリアが言う。
「知っているわ」
「知っていて行くことを、勇気とは呼びません」
彼女の声はいつもより鋭かった。
昔なら、任務として私を止めただろう。
今は、恋と恐怖が混ざった声で止めている。
私はそれをわかっているのに、胸の奥で別の声が囁く。
私ひとりが行けば、セシリアに会える。
私ひとりが捕まれば、残る六人は解放されるかもしれない。
そんな保証はない。
ないのに、罪悪感は保証のない嘘ほど甘く見せる。
アイリスが膝をつきかけ、途中で思い直して立ったまま言う。
「命令してください。あなたを止めろと」
「そんな命令は出せない」
「では、私の意思で止めます」
彼女のまっすぐさが、今は眩しすぎた。
* * *
私は一度、部屋を出た。
廊下には差し押さえ札が貼られ、封印紙の白が夜目にも浮いている。
母の肖像画にも布がかけられていた。
係争中資産だからという理由で、母の顔まで隠されている。
私は布の前で立ち止まる。
母は昔、薔薇は枷にも鍵にもなると言った。
その言葉の意味を、私はずっと鍵のほうだけ信じたかった。
けれど今、私の力は彼女たちを鍵の形で縛ってしまったのではないかと思う。
私が救うと決めたから、彼女たちは裁かれる。
私が居場所を作ったから、その居場所が標的になる。
私が選んでと言ったから、選んだ彼女たちが痛む。
廊下の奥で、セシリアの客間の封印紙が揺れた。
誰もいないのに、彼女の声が聞こえた気がした。
レティシア様。
助けて、と言ったのか、来ないで、と言ったのか、わからない。
* * *
食堂へ戻ると、六人はまだ待っていた。
誰も私を置いて結論を出していない。
それがありがたくて、同時に逃げ場を失ったようでもあった。
「返答は保留します」
私が言うと、ミレイユが息を吐いた。
けれど安心は続かなかった。
王宮の封書には追伸があったのだ。
期限は明朝。
返答なき場合、セシリアとの面会権は永久に失効し、聖約裁判での情状酌量も適用しない。
情状酌量という言葉に、エリスが低く笑った。
「最初から罪人扱いね」
私は封書を閉じた。
手袋の指先が破れていることに、その時初めて気づいた。
王太子の条件を検討する間、私は自分がどれほど古い癖で動いているか思い知らされた。
単独で来いと言われると、まず従うための服装を考えてしまう。
どの色なら怒りを買わないか、どの宝石なら家格を保てるか、どの程度の沈黙なら賢い婚約者に見えるか。
王太子妃教育は、私の身体にまだ残っている。
七人を救っても、私自身の檻は完全には壊れていなかった。
ミレイユが衣装箪笥の封印紙を見て、ため息をつく。
「よりによって、あなたを一番昔の形へ戻す条件ですわね」
「昔の形」
「王宮へ一人で行き、王太子の前で正しく立ち、望まれる返事を探す令嬢」
言われて、胸が痛んだ。
セシリアを助けたい気持ちの中に、選ばれるために自分を整える古い恐怖が混じっている。
ユリウスはそれを知っているのだ。
だから護衛も記録係も禁じた。
私を悪役令嬢へ戻すには、観客のいない部屋で十分だと考えている。
サフィラが静かに言った。
「なら、返答も一人で書いてはいけません。これは面会条件ではなく、あなたを昔へ戻す外交文書です」
その視点に、私は救われた。
個人的な弱さを、政治的な罠として見直せる。
返答案は三種類作った。
完全拒否、条件付き受諾、公開面会要求。
どれも欠点がある。
完全拒否はセシリアを遠ざける口実になる。
条件付き受諾は私が揺れていることを示す。
公開面会要求は、相手が拒んだ時に時間を失う。
ノエルは確率を書き、ミレイユは費用を書き、エリスは相手が使う詭弁を書き出した。
サフィラは外交文書として公開面会を求める案を推し、アイリスは護衛不可の時点で無効だと主張する。
ユーリアは沈黙していた。
私は彼女に尋ねる。
「あなたなら、どこを通る」
「私なら、条件を飲んだふりをして先回りします」
「それは私にもできる」
「できるから危険です」
即答だった。
彼女は私を見た。
「お嬢様は、自分を餌にする時だけ判断が早い」
誰も反論しなかった。
私もできなかった。
それはたぶん、この局面で一番正確な分析だった。
夜、サフィラが王宮儀礼の古い作法を教えてくれた。
単独出頭を求められた者が、完全に拒まなくても相手の条件を崩す方法があるという。
袖口へ証人の印を縫い、髪飾りへ記録石を仕込み、靴底へ返答文の写しを入れる。
王女として人質のような交渉を重ねてきた彼女は、従っているように見せて従わない術を知っていた。
「行くためではありません。行かないと決めるためにも、逃げ道を知っておく必要があります」
その言葉で、私は少し楽になった。
選択肢を知ることは、罠へ向かうことではない。
罠を罠として見るための光だ。
ユリウスの条件は、私を一つの道へ追い込むものだった。
ならば私たちは、道を増やすことで抗える。
私は三つの返答案を封筒へ入れず、卓の中央に置いた。
選べないことを隠さないためだ。迷いを見せるのは怖い。けれど迷いを隠して一人で決めるほうが、今はもっと危険だった。
七人が揃っていない卓で、それでも七人の声を待つ形を残す。王太子が奪おうとしているのは、まさにその待つ時間なのだと気づいた。
封筒の横に、サフィラが青い糸を一本置いた。
交渉で迷った時、結ばずに残す糸は保留の印になるという。
答えを急がせる相手へ、まだ結ばない意思を示す小さな作法だった。
白い布の裂け目から、赤い薔薇の痕が覗いていた。
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