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第94話 裂けた薔薇の手袋

 手袋の裂け目は、小さな口のように開いていた。


 そこから覗く薔薇の痕は、以前より濃い。


 血ではなく、熱を持った赤い光が皮膚の奥で脈打っている。


 ノエルが魔導灯を近づけ、眉を寄せた。


「代償が蓄積している。聖約反応に触れすぎた」


「治せるの」


 セシリアなら治癒の祈りをかけようとしただろう。


 その考えが浮かんだだけで、胸が痛む。


 今ここに彼女はいない。


 白い馬車に連れて行かれ、声を塞がれ、祈りすら教会の管理下に置かれている。


 私は手を引こうとしたが、ノエルが珍しく強い力で手首を押さえた。


「観察ではない。止血」


 その言い方が不器用で、泣きそうになった。


 彼女なりの心配は、いつも論文の余白からこぼれる。


* * *


 裂けた手袋を替えようとした時、さらに三つの報せが届いた。


 アイリスには騎士団から自宅待機命令。


 サフィラには外務局から王宮保護への再勧告。


 ミレイユには商会監査のため出頭要請。


 すべて明朝、別々の時刻、別々の場所。


 王太子の単独出頭条件と同じ日だ。


 分断は偶然ではない。


 私をひとりにするため、六人の足元を同時に払っている。


 アイリスは命令書を握り潰しそうになり、寸前で広げ直した。


「怒りで証拠を潰すところでした」


「それを言えるなら大丈夫ですわ。私など、父の封書を三度ほど燃やす算段をしましたもの」


 ミレイユが笑うが、目元に疲れがある。


 サフィラは静かに青い印を布で包んだ。


「王女として出れば、私を外交問題にできます。出なければ、恋に溺れた人質にされます」


 彼女たち一人ひとりの足元が、別の檻になっていく。


* * *


 私は応接室で、全員の出頭を拒否する文案を書いた。


 しかし筆が途中で止まる。


 拒否すれば、相手は不服従として記録する。


 応じれば、分断される。


 どちらを選んでも、誰かが傷つく。


 そんな選択ばかりを彼女たちへ返してきたのではないか。


 破約の薔薇は、本人の拒絶を切る力だ。


 けれど私は、その力を持っているというだけで、彼女たちの人生の中心に立ってしまった。


 望んでいなくても、私の痛みが彼女たちを動かす。


 手首から血が滲むたび、セシリアは祈ろうとし、アイリスは剣を取り、ユーリアは影へ戻りかける。


 これは愛なのか。


 それとも、別の形の聖約なのか。


 考えたくない問いが、裂けた手袋の隙間から入り込む。


 エリスが私の前に古い布を置いた。


「手袋は替えなさい。血を晒していると、みんながあなたの痛みで判断する」


 痛いところを突かれ、私は返事ができなかった。


* * *


 夜、ユーリアが私の部屋の前に立っていた。


 護衛ではなく、見張りの距離だった。


「明朝、お嬢様が単独で出ようとした場合、私は止めます」


「命令でも」


「命令では動きません」


 即答だった。


 それが嬉しいのに、胸の奥は苦しい。


 彼女まで私を止めるために、自分の過去の技を使うのだ。


「私は、あなたたちの自由を返したかっただけなの」


 零れた言葉は弱かった。


 ユーリアはしばらく黙り、低く答える。


「返されました。少なくとも、私は」


「でも、あなたをまた影へ戻しかけている」


「戻りません。戻されそうになっても、戻りません」


 その強さを信じたい。


 けれど廊下の向こうで、誰かが悪役令嬢という噂を囁いた。


 ノエルの応急処置は、魔導糸で薔薇の周囲を冷やすものだった。


 痛みは消えないが、熱が暴れなくなる。


 彼女は眠そうな目で私の手首を見つめ、珍しく言葉を選んでいた。


「あなたの力は、本人の拒絶を翻訳する。けれど翻訳者が傷だらけだと、周囲は原文より翻訳者の出血を見る」


 その比喩は、彼女らしい正確さで私を刺した。


 私の痛みは、彼女たちの選択を覆い隠すことがある。


 セシリアが祈りたくなるのも、アイリスが無茶をするのも、ミレイユが金を投げ出すのも、私が傷を隠さず立っているせいかもしれない。


「隠せということ」


「違う。治療対象として扱う。象徴にしない」


 ノエルは布を巻き終え、結び目を不器用に整えた。


「レティシアは術式ではない。人間」


 短い言葉だった。


 私は返事に困り、ありがとうとだけ言った。


 彼女は頷き、眠気に負けかけながら付け足す。


「だから、壊れたら困る。観察記録が途中で終わる」


「そこは恋文と言ってくれてもいいのよ」


「検討する」


 そのやり取りが少しだけ日常を戻した。


 だからこそ、すぐ後に届いた分断の報せが、余計に残酷だった。


 裂けた手袋を縫ったのは、サフィラだった。


 王女が針仕事をする姿は意外で、私が驚くと、彼女は少しだけ得意げに笑った。


「人質同然の留学生は、待つ時間が長いのです。待つ間に、いろいろ覚えました」


 彼女は青い糸ではなく、目立たない白い糸を選ぶ。


「傷を飾る縫い方もできます。でも今日は、痛みを目立たせないほうがよいでしょう」


 針が布を通る音を聞きながら、私は息を整えた。


 サフィラは国を背負う少女だ。


 派手な旗を掲げる時と、目立たない糸で支える時を知っている。


「あなたの国境も閉じられているのに、私の手袋なんて」


「国境を開くのも、手袋を縫うのも、私が選んだ仕事です」


 彼女はそう言い、最後の結び目を作った。


 縫い目は完全ではない。


 でも、裂け目から血を見せびらかすよりずっとよかった。


 私はその手袋を受け取り、今度は痛みを象徴にしないと心の中で誓った。


 誓ったはずなのに、夜にはまた自分を差し出すことを考えている。


 人はそんなに簡単に、古い癖から逃げられない。


 エリスはその日の記録に、薔薇の出血を証拠として載せることに反対した。


「痛みは事実。でも、あなたの痛みを前面に出すと、七人の意思が情緒に見える」


 冷たい言い方に聞こえたが、正しかった。


 私がどれほど痛んだかではなく、彼女たちが何を拒み、何を選んだかが裁判の中心でなければならない。


 私は頷き、薔薇の傷については医療記録に留めると決めた。


 セシリアがいれば、私の痛みを見せたいと言っただろうか。


 いや、きっと彼女も最後には頷く。


 優しいからこそ、私の傷で自分の声が隠れることを望まないはずだ。


 そう考えると、少しだけ背筋が伸びた。


 ミレイユは古い宝石箱から、飾り気のない手袋留めを出した。


 売れば銀冠になる品を、彼女は迷わず私の袖口へ留める。


「見せるためではなく、ほどけないための贅沢ですわ」


 その軽口で、痛みは少しだけ私のものに戻った。


 その言葉は壁を越え、私の裂けた手袋へぴたりと貼りついた。


お読みいただきありがとうございます。

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