第95話 悪役令嬢の独白
悪役令嬢という言葉は、何度聞いても古い檻の鍵の音がする。
前世の記憶を取り戻した日、私はその言葉から逃げるために動いた。
断罪される役を降り、セシリアを救い、アイリスの剣を返し、ノエルの研究を守り、ミレイユの値札を破り、サフィラの国境を越え、エリスの真実を拾い、ユーリアの手を影から引いた。
そう信じていた。
でも、今の屋敷を見れば、別の物語にも見える。
私が触れた人から順に、家と教会と王宮が襲いかかる。
私が居場所を作ったから、そこが壊される。
私が選んでと言ったから、選んだ彼女たちが裁かれる。
救ったのではなく、巻き込んだのではないか。
その考えは、夜の廊下で足音もなく近づいてきて、私の隣へ座った。
* * *
王太子の封書を、私は何度も読み返した。
単独で来い。
セシリアに会わせる。
七人の身柄について配慮する。
嘘だとわかっている。
ユリウスが約束を守る保証などない。
それでも、私ひとりが悪役令嬢として差し出されれば、彼らの筋書きは少しだけ単純になる。
セシリアは聖女候補へ戻され、アイリスは騎士団へ戻り、ノエルは研究室へ、ミレイユは商会へ、サフィラは母国へ、エリスはどこかの書庫へ、ユーリアは影から抜けられなくても命だけは残る。
そんな未来を想像して、吐き気がした。
彼女たちの望みを消しているのは私自身だ。
守るためという名で、彼女たちを元の檻へ戻す算段をしている。
王家や教会と、何が違うのだろう。
机の上に白紙を置く。
出頭書の文面は、恐ろしいほどすぐに浮かんだ。
私は昔から、選ばれるために自分を差し出す文章だけは上手だった。
* * *
書きかけの出頭書を、私は封じなかった。
ただ折りたたみ、引き出しの奥へ入れる。
誰にも見せるつもりはなかった。
見せれば止められる。
止められれば、私はまた彼女たちに選ばせることになる。
その時、扉の外で足音が止まった。
ミレイユだ。
彼女の足音は柔らかいが、迷う時だけ最後の一歩が遅れる。
「レティシア様。眠れない方へ温かいものを売りに参りました」
「今夜は買えないわ」
「では掛けにしておきます」
返事を待たずに扉が開く。
彼女は盆に蜂蜜入りの茶を載せていた。
セシリアがいない夜に蜂蜜の香りがするだけで、胸が締めつけられる。
ミレイユはそれに気づき、茶器を机へ置いた。
「謝りませんわ。今夜の甘さは逃げるためではなく、あなたが壊れないための経費です」
その言い方が彼女らしくて、私は少し笑いかけた。
でも笑えなかった。
* * *
ミレイユの視線が、引き出しへ落ちた。
私は反射的に手を伸ばす。
遅かった。
彼女は紙の端を見ただけで、何を書いたのか察した。
華やかな笑みが消える。
「それは、いけません」
「まだ何もしていないわ」
「する人の顔です」
彼女の声が震えた。
怒りだけではない。
値札をつけられて売られそうになった彼女が、今度は私が自分に値札をつけるところを見ている。
「私たちを守るためにご自分を売るなら、私はその取引を許しません」
言葉が刺さる。
私は返せなかった。
ミレイユは出頭書を奪わず、机の上へ戻した。
「これは証拠にしません。けれど、隠しません。明朝、皆に見せます」
「ミレイユ」
「嫌われても構いませんわ。あなたを一人で出荷するより、ずっとましです」
彼女はそう言い、茶を置いて出ていった。
出頭書を書いたあと、私は古い日記を開いた。
王太子妃教育を受けていたころのものだ。
そこには、今日の自分とよく似た文が残っていた。
私が我慢すれば、揉め事は収まる。
私が黙れば、家の面目は守られる。
私が選ばれれば、母も安心する。
幼い文字で書かれたそれを見て、吐き気がした。
私はずっと、自分を差し出せば丸く収まると教えられてきた。
今も同じことをしている。
違うのは、差し出す先が王太子の婚約ではなく、七人を守るための裁きに変わっただけだ。
美しい自己犠牲に見せかければ、古い檻は戻ってくる。
私は日記を閉じ、額を押さえた。
悪役令嬢という言葉の奥には、いつも都合のいい生贄がいる。
物語を整えるために嫌われ、罰を受け、退場する女。
前世の私はそれを画面越しに見ていた。
今の私は、自分でその役へ戻ろうとしている。
ミレイユが見つけてくれなければ、きっと朝までに封をしていた。
そう思うと、彼女への感謝より先に、自分への恐怖が来た。
ミレイユが去ったあと、私は出頭書を破ろうとした。
けれど破れなかった。
破れば、なかったことにできてしまう。
私はこれを書いた自分を、なかったことにしてはいけない。
七人を信じきれず、自分を売れば済むと思った自分。
それも私だ。
悪役令嬢という言葉に傷つきながら、その役を隠れ蓑にしようとした私だ。
私は出頭書の下へ、もう一枚紙を重ねた。
なぜ書いたか。
何が怖かったか。
誰を信じられなかったか。
ひとつずつ書き出していく。
それは懺悔ではなく、次に同じ罠へ落ちないための記録だった。
書けば書くほど惨めになる。
でも、惨めさを隠して美しい犠牲に変えるよりはましだ。
夜明け前、紙は涙で少し波打っていた。
私はそれを机の上に置いたまま、眠らず朝を待った。
皆に読まれるのが怖かった。
それでも、隠すほうがもっと怖かった。
朝になる前、私は鏡の前に立った。
目は赤く、髪は乱れ、悪役令嬢らしい冷たい美しさなどどこにもない。
それでも鏡の中の私は、どこか昔の断罪舞踏会の日に似ていた。
追い詰められ、役割の名前を貼られ、何かを諦めれば終わると思いかけている顔。
あの日と違うのは、私の周りに七人の痕跡があることだった。
蜂蜜の香り、剣帯の金具、朱筆の跡、赤い帳簿留め、青い封蝋、焦げた索引、黒い影糸。
それらが鏡台の上に散らばっている。
悪役令嬢として一人で退場するには、私はもうあまりに多くの手を知ってしまった。
だからこそ怖い。
知っている手を失うくらいなら、自分から離したほうが痛くないと、弱い私は思ってしまう。
机の端には、セシリアが残した蜂蜜壺の包み布があった。
それを見るだけで、出頭書の文字が急に薄っぺらく見える。誰かのために死ぬ覚悟より、誰かと一緒に苦い薬を飲む約束のほうが、ずっと逃げにくい。
私は包み布を出頭書の上に置いた。美しい犠牲の文章が、その小さな布一枚に負けるなら、まだ引き返せるかもしれないと思った。
扉が閉まった後、私は白紙の上に落ちた自分の涙を見た。
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